05



 愛しい愛しい■■。
 ■■を守るためなら、すべてをなげうっても後悔はしない。たとえ■■に恨まれることになろうとも構わない。

 ――そうだ、そう思っていた。今もそう思っている。
 愛しいから遠ざけ、愛しいから離れようとした。
 ――お前はどうして追いかけてきてしまうのだろう。お前を守りたいのに。もう、お前しかいないのに。

 澱(おり)が溜まっていく。
 理を守った分だけ人の身にとどまり、斬った分だけ人の身から遠ざかっていく。
 ねじ切れた運命の糸がばらばらと床に落ちている。命の削れる音に似て、空っぽの糸切り車がからからと回っている。
 朝、目を覚ました時に思う。あと何日。あと何日残っているのだろう。
 まだ自分が人の姿を保っていることに安堵し、そして恐怖する。
 さらさらと落ちる砂時計のように、自分に残された時間が見えていたなら。
 ――最後の刻に何をしただろう。

          *

「こんなところでどうかしたのか」
「あ、いえ、何でもないです」
 屋上へと続く非常階段に背の高い男子が、冨岡を見て慌てて立ち上がった。
 鶏のとさかのような髪型に、大きな三白眼。冨岡の同僚である不死川実弥と似通った顔立ち。
「不死川の弟か」
「はい。不死川玄弥です」
「知っている」
「そ、そうですよね……」
 玄弥はきまり悪そうに頬を掻いた。
「何をしている。座れ」
「あ、えっ、はい」
 大きな身体を小さく丸め、玄弥は階段に腰を下ろした。
 冨岡も少し間を空けて、その隣に座る。
「あ、あの……?」
「どうした。食べないのか」
「先生もここで食べるんですか?」
「そうだが」
「そ、そうですか……」
 戸惑う玄弥に頓着せず、冨岡はパンの袋を空けた。
「冨岡、探したよ――って、あれ、不死川弟?」
 村田がぱちくりと目を瞬いた。


「ふうん、不死川先生がねえ……賞状を破るのはちょっとやりすぎじゃないかな」
 村田と冨岡に挟まれた玄弥は萎縮しきっていた。
 一人になろうとしたのに、何故か先生と用務員に両脇を固められて、非常階段に横並びで座っている。緊張で汗が出てきた。
「たとえ弟でも、人生を決めるのは本人なんだからさあ」
「過保護だな」
「身も蓋もない……」
「あの、こんな話してすいません」
「何言ってるの、生徒が悩んでたら相談に乗るのが教師だよ」
 村田が明るく言う。
「ありがとうございます……」
「ちょっと冨岡からも言ってもらえばさ。高校のクラス一緒だったことあったっけ?」
 パンを食べ終えた冨岡が包み紙を丸め、ぼんやりと虚空を見た。
「いや……俺は不死川に……嫌われている? ……と思う」
「なんでそんなあやふやなんだよ」
 冨岡が更に考えこむ顔をした。
「あれは五年前のこと……」
「いや長いわ」
 冨岡と村田のテンポのいい掛け合いに緊張がほぐれてきて、玄弥は少し笑った。
「まあ何はともあれ、あんまり深く考えこまない方がいいよ。なんかあったら、またいつでも相談に乗るし」
 冨岡も無言で頷いた。
 玄弥は立ち上がり、一礼した。肩の荷が下りたような気がした。
「すみません、ありがとうございました。ちょっと、ほっとしたというか」
「ならよかった。一度、ちゃんと不死川先生と話した方がいいよ」
「そうですよね……今週末にでも話してみます」
「あんまり気負うなよー」
 ひらひらと村田が手を振った。

          *

 昼休みも終わりにさしかかる頃。
 給湯室に同僚の不死川玄弥の背中を発見し、冨岡は近づいた。
「不死川には弟がいるな」
「弟なんていねえよ」
 ぶっきらぼうに実弥が返した。
 凶悪な面構えでそんな口を利くとたいていの生徒は震え上がるのだが、冨岡には特に何の効果もなかった。そもそも冨岡とは折り合いが悪いのか、話しかけるといつもこんな調子である。
「名字が同じだが」
「弟じゃねえ」
「……不死川玄弥のことだが」
「うるせえな、俺には関係ねえよ」
 何故否定するのかわからず、冨岡は沈黙した。
 マグカップに適当にインスタントコーヒーを放り込んだ実弥がお湯を注ぐ。
 こぽこぽという音を聞きながら、冨岡は言葉を続けた。
「……不死川玄弥の部活のことだが」
「しつけえよ!」
 実弥がものすごい形相で振り返った。
 とりつく島もない。
「部活を続けたいと言っていた。少しは話を聞いてやっても……」
「人の家に口を出すな!」
 どすどすと足音も荒く、実弥は出ていってしまった。
「お、どうした? 派手に喧嘩か?」
 入れ替わりに入ってきた宇随が軽口を叩いた。
 冨岡は目を伏せた。また失敗してしまった。
「どうやら怒らせてしまったようだ」
「何言ったんだ」
「弟の話を」
「あー……」
 がしがしと宇随が頭を掻いた。
「なんかこじれてるよな、あそこの兄弟も」
「何か知っているのか」
「見りゃわかるだろ。父親もいない家で不死川が父親代わりだったんだ。思うことの一つや二つあるだろ」
「二つもあるのか」
「ものの例えだよ……」
「将来の心配をしている、というように見えるが」
「単純に言えばそうなんだろうけど。ま、冨岡が首突っ込んでも、ろくなことにはならないと思うぜ」
「そういうものか」
「お前がよほどの世話焼きなら別だが、その口下手をなんとかしねえことにはな」
「……む」
 否定できなかったので、冨岡は黙り込んだ。
 どうにも口を開くたびに誰かを怒らせてしまう。村田や錆兎には意思が伝わるようなのだが、他の人には誤解されやすいらしい。喋るのはまったくもって上達しない。
「家族だから見えないこともあるんだろうけど」
「……」
「近すぎてもよく見えないってことだ。ただまあ、端的に言ってやりすぎだな。弟だからって人の人生に介入しちゃだめだろ。仮にも教師なんだから、主体性を重んじないと」
 意外とまっとうな教師らしいことを言って、宇随は腕を組んだ。宇随にも何やら思うところがあるらしいのだが、冨岡は筋金入りの脳筋なので、ひとつ頷いた。
「次に不死川玄弥の賞状を破ったら、不死川を一発殴ればいいんだな」
「いや誰もそうとは言ってないだろ。人の話を聞け」
「聞いている」
「聞いてねえだろ馬鹿」
 宇随が派手に舌打ちした。



06



 中等部の教室の前に立ち、炭治郎は深呼吸した。
 戸の上のプレートを見上げて最終確認。よし。クラスは合っているはず。
「ごめん、ちょっといいかな」
 近くにいた男子に声をかけた。
 面倒くさそうに振り返った男子は、炭治郎の高等部の制服を見てびっくりした顔をした。
 炭治郎は慌てて顔の前で手を振った。
「あ、いやそんな大したことじゃなくて、鱗滝錆兎くんってこのクラスで合ってる?」
「鱗滝ですか? ちょっと呼んできます」
 男子生徒が錆兎を呼びに行く。
 同級生に呼ばれた錆兎が訝しげに炭治郎を見上げた。
「何の用だ、炭治郎」
「うん。ちょっと相談があるんだけど」
「相談?」
「冨岡先生のことで」
 錆兎は周囲を見渡した。
「ここじゃなんだから、中庭に行こう」

 高等部と中等部に挟まれた中庭の藤棚の下、設置されたベンチに二人並んで腰掛け、錆兎は口火を切った。
「話ってなんだ」
「……錆兎は、幽霊とか信じる?」
 炭治郎の耳元で、花札のような耳飾りが揺れた。
 藤の花が日の光を遮り、二人の上にまばらな陰影を作る。季節を問わずに咲き狂う藤は、キメツ学園の名物のひとつでもあった。
「俺は自分の目で見たものしか信じない」
「普通はそうだよね……」
「でも、炭治郎のことは信じるよ。お前はたちの悪い冗談を言う奴じゃない」
 炭治郎は顔を上げた。
「義勇のことか」
 真っ直ぐに、錆兎が炭治郎を見返した。
「……知ってるの?」
「知っているとも言えるし、知らないとも言える」
 錆兎は曖昧な言い回しをした。知り合って間もないが、きっぱりした物言いをする普段から窺える性格らしくない。
「義勇が隠したがっているから、知らない振りをしているだけだ。義勇が話してくれるまで、俺は待つ」
 探るような目をして、錆兎が言った。
「でも、まだ中学生の俺が言うことじゃないけど……義勇が一人で危ない橋を渡るのは嫌だ」
「うん……、うん、そうだよね。義勇さん、何でも一人で抱え込もうとするけど、そういうのは嫌だよね」
 霧が晴れたような気持ちになって、炭治郎は錆兎の手を握った。そのままぶんぶんと上下に振り回す。
 冨岡は時に、村田さえも遠ざけようとする。命の恩人でもある冨岡が一人で危険な怪異退治をするのを、炭治郎は黙って見過ごすつもりはなかった。
 急に手を握られた錆兎が戸惑う。
「え、ちょっと炭治郎、急になんだ」
「じゃあ今週末の肝試し、付き合ってくれるか?」
「……なんで?」
 そう言った錆兎の顔は、冨岡とそっくりだった。



07



『 契約は為された 』
 神の名を冠する怪異がゆったりと空を泳ぐ。透き通った無機質な瞳に見下ろされる。人ならざる者の視線が問う。
 唇を噛みしめ、怪異を睨む。そうでもしないと泣き出しそうだった。
 ――後悔などしない。するものか。
 腕の中の■■を抱きしめる。温かい。当たり前だ。
 胸に湧き上がるのは安堵。そして――ほんの一握りの恐怖。いつか■■が真実を知った時、己の罪を糾弾するかもしれない。
 その日が来ることを、怖れている。
 この命が尽きる瞬間よりも。

          *

「あの、にい、じゃなくて、不死川先生、話があるんですけど」
「なんだァ?」
 ぎょろりと実弥の三白眼が玄弥を見た。
「えっと、明日の放課後、時間は……」
 言葉が尻すぼみになった。玄弥はちらりと兄の顔を見上げた。
「その、家じゃ話しづらいから公園で……」
 実弥が舌打ちした。
 びくりと玄弥が肩を動かすと、実弥は更に一度、舌打ちをした。


「話ってなんだ」
 ポケットに手を突っ込んだ実弥が胸をそびやかした。
 二一時の公園である。かなり人気は少なくなっていた。
「部活のことで話があって」
 藤棚の下のベンチに座り、玄弥は意を決して言った。家にいると息が詰まるから公園にした。二人きりの世界で閉じこもってはいられないのだ。
 実弥はにべもなかった。
「話すことはもうねェよ」
「でも……!」
「学生なら勉強しろ」
「兄ちゃん、聞いてくれよ。俺、射撃がやりたいんだ。この前の大会だって一位を取ったんだ」
「それがなんだ。将来それで生きていくつもりか?」
「そうじゃないけど……」
「時間の無駄だ」
 実弥の顔が冷たくこわばっていく。
 玄弥は膝の上で拳を握りしめた。心が冷えていくにつれて、指先もかじかんでいくようだ。そのくせ顔に血が集まって、頬が熱い。
「兄ちゃん、なんでそんなこと言うんだ。俺の人生は俺が決める」
「あァ!?」
 ――怒りだ。
 生まれて初めて、玄弥は兄に楯突いた。
「だいたい、何の権利があって兄ちゃんが口出しするんだ!」
 言葉が止まらなくなっていく。涙がこみ上げてきた。
 実弥は驚いて固まっていたが、やがてわなわなと震えながら玄弥に歩み寄った。
「何の権利か、だと」
「そうだよ、兄ちゃん、いつまで俺のこと子どもだと思ってるの」
「お前なんかまだまだガキだよ」
「違う! 俺もう高校生なんだよ!」


 二人が会話する頭上で、藤の花の垂れた房が揺れる。手招きするように。
 藤棚の下に立つ女は、愛おしそうに二人を見つめる。


「柳女(やなぎめ)かと思ったが、産(うぶ)女(め)に近いような……まさか鬼子母神か?」
「鬼子母神とか怖いこと言わないでくれる?」
 村田は震えながら言った。藤棚の後ろに植えられたツツジの茂みに隠れているが、不死川兄弟にいつ見つかるかとひやひやしている。
 冨岡はいつもの竹刀を地面に横たえ、油断なく二人を見守っている。
 柳の下に誰かが立っているのがおぼろげに見える。冨岡にはもっとはっきり見えているのかもしれない。
 冨岡が公園に行くと言い出したので、着いてきた次第だった。炭治郎から聞いた肝試しの予定日でもあったので、万が一何か起こらないようにと心していたが、まさか知人の兄弟喧嘩をまた見ることになるとは。
「いや……そこまでの格は備えていないか」
 肝試しすると言っていた生徒の姿は見えず、代わりに怪異事件に巻き込まれたとおぼしき不死川兄弟に遭遇してしまった。
「幽霊騒ぎって、不死川玄弥に取り憑いていたのが原因ってこと?」
「そのようだな。不死川実弥が招いた怪異が弟に取り憑いている」
 声を荒げる実弥を見ながら、冨岡は冷静にそう判断を下した。
「どうする、あれ」
「どうもしない。あれは退治すべき怪異じゃない」
「そうなの?」
「子を想う母の姿が怪異化したものだ。退治したところでまた生まれるだけだろう」
「でも母親って……不死川先生が? あの強(こわ)面(もて)で? どっちかといえば父親じゃないのか?」
「たしか不死川のご母堂は入院して二人暮らし……怪異の方が寄せられていったのか……?」
 独り言のように冨岡は呟く。
「怪異は人に見られて初めて、怪異として成立する……であれば……」
「不死川が漂う怪異をそう歪めた?」
「かもしれない」
 柳女、産女、鬼子母神。すべて母親の怪異だ。子を大切に想う母の愛情。時にそれは、子を傷つける者を激しく排斥する。
「親が両方いないから母親の役割も担っていてもおかしくはないけど……」
 だとすれば、不在の母の代わりとして、不死川実弥が幽霊を引き寄せた。そう解釈することも可能だろう。怪異というのも、案外適当な代物なのかもしれない。
「でもさあ、どうすんの? やっぱ危ないでしょ」
「この手合いは、当人たちに解決してもらわければ繰り返すだけだ」


 ひゅう、と風が吹いて、藤の花が腕を伸ばした。
 ――否、藤ではなかった。
 白い女の腕が、玄弥の首に回った。細い指がそうっと喉仏をたどる。
「うるせェっつってんだろ!」
 ものすごい剣幕で実弥が怒鳴った。激情に身を任せ、玄弥の胸ぐらを掴んで立たせる。
「なんだよ! 何年か先に生まれただけのくせに! 兄ちゃんの分からず屋!」
 バシッと音がするほど強く実弥を払いのけた玄弥の腕が、怪異をなぎ払った。


「――マジで?」
 ぽかん、と村田は口を開けた。
 あわや殺されるかもしれない、と腰を浮かせたところだった。
 竹刀を掴んだ冨岡も、驚いたようにぱちぱちと瞬きした。


「なんでそんなに焦ってるんだよ、兄ちゃん、変だよ」
 白い腕が伸ばされる。玄弥の肩に手が置かれる。
 玄弥に白い腕は見えていない。実弥にも見えない。二本の白い腕は透き通って、身体は存在しない。
 実弥が顔を手で覆った。
「……頼むから、これ以上、俺から奪わないでくれよ……」
 聞いたことがないほど弱々しい声で、実弥がこぼした。
 兄の弱い姿を見るのは、初めてだった。いつも兄は、玄弥の前では気を張っていたから。
 うっかり漏れてしまったように、硬い殻が剥がれ落ちたみたいに、切ない響きが込められたその言葉を、玄弥は受け止めた。もう、守られるだけの弟ではない。
「たった一人の弟なんだ……なあ、お前しかいないんだ、玄弥。母さんも死んで、俺は、」

 白く透ける腕がそうっと持ち上がって、指が玄弥の頬を撫でる。愛おしそうに。
 そして腕がそのまま伸ばされて、実弥の頬に触れた。慈しむように。慰めるように。

 玄弥は声を和らげた。すとん、と何かが収まるべきところに収まったような、そんな気がした。
「――知ってるよ」
 知っている。ずっと知っている。父がひどく荒れて母を殴った日、物陰に隠れて不安にすすり泣く玄弥を抱きしめて「兄ちゃんが守ってやるからな」と囁いた実弥を、一生忘れないだろう。
 玄弥の兄は、実弥だけなのだ。
 どれだけ年を取っても、玄弥が子どもでなくなっても、二人は兄と弟なのだ。
「だから兄ちゃん、一人で頑張らないでよ。俺にも分けてよ。一人じゃないんだから。俺たち、兄弟なんだよ。家族なんだよ」
 つ、と実弥の目から雫が滑り落ちた。


 二人の頬を撫でた白い腕が虚空へ溶けるように消えるのを、村田と冨岡は見届けた。



08



 がさりと音がして、実弥は涙に濡れた頬のまま振り返った。
「……偶然だな」
 ツツジの茂みの向こうに冨岡と村田が立っていた。
 ――見られていた。
 あまりに白々しい態度に、カッと頭に血が上った。
「なんでお前がここにいるんだ」
 刺々しい態度を隠しもせず、実弥は怒鳴った。ぐいぐいと頬を袖で拭く。こんな顔、見られたら恥ずかしいにもほどがある。
「いいから答えろ、冨岡!」
「……ただの見回りだが」
「あ、肝試しするって言ってた生徒がいたから、念のために見回りしてたんですよ」
 冨岡の簡素に過ぎる答えに、村田が付け加える。
「ずいぶん親切なことだな」
「教師だからな」
 舌打ちをして実弥が視線を逸らした。
「兄ちゃん」
 控えめに玄弥が呼んだ。
 村田が冨岡の腕を掴む。
「お邪魔みたいなので失礼しますね! それじゃ!」
「おい、待て!」
 止める暇もなかった。
 走り去る二人を見送ることしかできず、実弥は手を下ろした。ため息をつく。
 深呼吸をして、頭を冷やす。
「悪かったよ、玄弥」
「え?」
 唐突に謝られた玄弥が戸惑いの表情を浮かべた。
「その……悪かった」
 実弥は玄弥と目を合わせないまま、ポケットから折りたたまれた紙切れを出した。
 射撃大会の賞状だった。ちぎれた賞状がセロハンテープでつなぎ合わされている。
「お前の机の上に置いてあったのを見て……俺もついカッとなって……すまない」
 ぼそぼそと実弥は謝った。癇癪(かんしやく)を起こした子どもみたいな真似をして、我ながら恥ずかしい。どれほど玄弥は傷ついただろう。他ならぬ兄の手によって自分を否定されて。
 何故、そんなことにも思い至らなかったのだろう。大切な弟を自分で傷つけていたことに気づきもしなかった。押しつけがましい愛情なんて、愛情ではないのに。
「うん。兄ちゃん、俺、すごく悲しかったよ」
 玄弥は穏やかな声で言った。ずいぶんと大人びた顔をしていることに、ようやく気づいた。もう、後ろをついて回っていた小さな弟ではない。しっかり自分の足で立てるのだ。
「……」
 何も言い返せない。実弥には、そんな権利はない。
「兄ちゃん、俺、射撃がやりたい」
「……勉強はちゃんとしろよ」
「うん」
 自分と同じ背丈になった弟を、実弥は抱き寄せた。
 背中に回った大きな手が、しっかりと実弥の背を抱いた。

          *

 肝試しをしていた生徒を叱り、家に帰したところで、
「うん、で、これはどういうことなのかな」
「たまたまジョギングしていただけです!」
 明後日の方を向きながら炭治郎が元気よく答えた。
 隣で錆兎は額に手を当てた。
「苦しい言い訳だな……」
 村田は苦笑した。
 炭治郎は嘘がつけない。大方、冨岡の怪異退治を手伝うつもりだったのだろう。すげなく断られたのにめげない根性は尊敬に値する。
「すみません、村田さん。こいつが言うこと聞かなくて」
「あっずるいぞ、錆兎だって乗り気だったじゃないか」
 言い争う二人の頭に、冨岡は平等に拳骨を落とした。
「二人とも早く家に帰れ。今何時だと思っているんだ」
「痛い……」
「本気で殴らなくても……」
 冨岡は無表情で二人を見下ろした。
「それとも鱗滝先生を呼ぶか」
「それはやめてくれ。先生に申し訳ない」
 炭治郎が頭を押さえながら訊いた。
「義勇さん、幽霊ってどうなりました?」
「どうもしない。ただの見間違いだ」
「幽霊の正体見たり、枯れ尾花、ってね。藤の花が幽霊に見えたんでしょ」
「そうですか……」
 しょんぼりと炭治郎が肩を落とした。
「あれ、炭治郎?」
「はい?」
 名前を呼ばれた炭治郎が振り返ると、玄弥が実弥と連れだって歩いてくるところだった。
「玄弥と――不死川先生」
「お前らまだいたのか」
 実弥が嫌そうに顔をしかめた。
 村田は顔を逸らした。冨岡は無表情を貫いている。
 そんな二人と実弥を炭治郎は不思議そうに見比べた。
「え、何かあったんですか」
「何もねえよ、じゃあな」
 ぶっきらぼうに答えた実弥が足を速める。
「あ、炭治郎、また来週な!」
 兄の後ろを慌てて追いかけながら、玄弥も去った。
「あの二人、何かいいことでもあったんですか?」
「なんでそう思うんだ?」
 村田が問うと、すん、と炭治郎が鼻を鳴らした。
「なんか……そういう匂いがしたので」
「炭治郎も時々、不思議なことを言うね……」
「そうですか?」
「何はともあれ、兄弟仲がいいのは素晴らしいことだよな」
 しみじみと村田は言った。
 こじれた人間関係が改善するのなら、怪異退治もそう悪いものではないのかもしれない。人を助けるだなんてご大層なお題目を掲げるつもりはないが、助かる人がいるのならやりがいもある。
 ――いや、やっぱりよくない。危険な目に遭うのはこりごりだ。
 そもそも、この手合いには自力で解決させるのが冨岡の方針だ。
 人が怪異を呼び、怪異が人を狂わせる。蓄積した想いが怪異を形作り、人が怪異をこの世に固定する。当人の根本的な事情を解決させなければ再発するだけだ。
 村田はこっそりと冨岡に囁いた。
「今回は特に何もしていなくて楽だったな。毎回これだと助かるんだけど」
「……運の良いことが何度も続くわけがない」
「そんなこと言うなよ。相変わらず後ろ向きだな」

 さあ、と風が吹いて、枝葉の擦れる音がした。
 藤の花が月光と街灯の光を浴びて、淡く発光している。

 かすかに頭痛を感じ、冨岡はこめかみを押さえた。
 瞼を閉じると、霧の中で藤の花が揺らめく。
「義勇、どうかした?」
 錆兎がすぐさま気づいて、冨岡を振り仰いだ。
 すぐに冨岡は瞼を開けた。
「何でもない」
 頬に熱を感じ、さりげなく髪で隠した。


 からからと、糸車の空回りする音が聞こえた。



09



「ええ、はい。申し訳ありません。ええ……」
 影が凝(こご)り、人型を取る。耳に手を当て、大仰な身振り手振りで何事かをひとしきり謝ると、人影は大げさに嘆息した。
「うーん、全然上手くいかないなあ。まず座敷童にしたのが悪かったのかなあ。あの方がずいぶんと怯(おび)えているようだったから最初にしたのに」
 月の光が照らす中で、ひとり呟く。
 ざわめきが遠ざかり、耳に当てていた手を下ろす。
「どうしてだろう……条件は十分だと思うのに。たかが産女なんかに……この間は結構うまくできたのになあ。何が違うんだろう」
 答える声はない。
「だって、こんなのつまらないでしょ。どこかで見た風景に、どこかで会ったことのある人。同じ姿形をした、違う誰か。偶然で片付けるのはもったいない」
 くるくると、その場で回ってみる。
 冴え冴えとした月光をスポットライトに、この舞台で割り当てられた配役通りに踊り狂っている。
 この世は舞台、人はみな役者。かの高名な劇作家はそう言った。
 ならば、自分が役者だと知ってしまうのは不幸なのだろうか。
「ねえ、君はどう思ってるのかな」
 愛でも囁くように、うっとりと呟く。
 喜劇が嫌いなわけではないが、悲劇の味は格別だ。
 この手足が動き、口が動く限り、この性根は治らないだろう。
 それは自分がいちばんよく知っていた。

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