00



 藤の花の匂いがする。

「ん……」
 誰かが瞼を撫でている。
 瞼を押し上げた。妙に力が入らない。頭の後ろに弾力のある感触がする。湿った土の匂い。足の下には露に濡れた草。
 なんとか身体に力を入れ、上半身を起こした。誰かの手が背を支えた。
 切り裂かれたようにぴりぴりと痛む頬に手を当てた。指先が傷を探り当てる。すっぱりと鋭い刃物で切られたように鋭い痛み。
「大丈夫か」
 気遣わしげな声がした。
 ぼやけた視界が焦点を結ぶ。■■の膝の上に寝かされていたようだ。
 何故こんなところで寝ていたのだろう。記憶がかすみがかったように、よく思い出せない。たしか、■■と山に入って、それから――それからどうしたのだったか。
 ずきりと頭が痛んで、思わずうめき声を漏らした。頭を押さえると、ぬるりと手が滑った。
 心配そうな顔をする■■がそっと壊れ物に触れるように、慎重な手つきで額の汗を拭ってくれた。
 違う。汗ではない。隠しようのない、鉄の匂いを嗅ぎ取った。手のひらを見る。赤い。赤い、赤い――――
「大丈夫だから」
 ■■に手を取られ、覆い隠すように手のひらを重ねられる。まだ成長期の、けれども自分よりも大きな手が握りしめてくる。
「何も心配することはないんだ」
 混乱しながら見上げた■■の顔に、それを見つけた。
「――それは何だ」
 声が震える。これはよくないものだと、本能で知っている。ざわざわと背筋を何かが這い上がってくる。
 頬の傷が、ひときわ強く痛んだ。
 ■■がきょとんとする。何を言われたかわからないように、ぱちぱちと瞬きした。
「それ、その顔の」
「ああ、これか」
 ■■がするりと指で自分の頬を撫でた。渦を巻いたような痣が、くっきりと白い肌に浮かび上がっている。
「大したことじゃない」
「それは何だと聞いているんだ……!」
「何でもない。何でもないんだ」
 叫んだことで、くらりと視界が揺れた。きいん、と耳鳴りがする。
 心配そうに眉を下げた■■に肩を支えられる。
「まだ寝ていろ」
「なあ■■、何をしたんだ」
 目がかすむ。瞼が重い。どろりとした眠気に絡め取られる。
「本当に、大したことじゃないんだ。すぐに忘れる」
 おやすみ、と囁く声が意識を眠りに引きずり込む。
 目を閉じきる前に、■■の穏やかな声が耳に滑り込んだ。
「お前が生きているのなら、それに勝ることなんてこの世にはないんだ」
 馬鹿を言うな、という言葉は声にならなかった。



01



「だるい……早く帰りたい……」
 善逸は膝を抱えて呟いた。
 情け容赦なく降り注ぐ直射日光がきつい。グラウンドの砂に反射して視界が眩しい。
 だいたい、なんで高校生にもなってこんなくだらないことをするのか。こういうのは小学生で卒業したい。
 組ごとに色分けされ、それぞれの色のはちまきを身につけているのもダサくて嫌だ。
「善逸、頑張ろうな」
 青いはちまきを締め、きらきらと瞳を輝かせた炭治郎が、ふん、と拳を握った。
 同じくそわそわしている伊之助。
 校庭の木陰には保護者が詰めかけている。
 キメツ学園、中等部・高等部合同の体育祭だった。
「恥ずかしいでしょ、こんなの」
「そうかな? あ、善逸のお爺ちゃん」
「え、どこ?」
 善逸は首を伸ばして保護者席を振り返った。
「ほら、テントの下」
 炭治郎の指さす先に、杖を片手に座っている養父の姿を認めた。
 養父がこちらを向いたので、善逸はさっと顔を背けた。
「善逸どこ見てるの」
「いや恥ずかしいから」
「あ、母さんだ」
 マイペースに母親に手を振り返す炭治郎が羨ましかった。まだ善逸には難しい。義兄が帰ってきてから関係性は一歩前進したものの、かえってぎくしゃくしたところもある。
 善逸のやる気が低空飛行しているのに関係なく、開会式は進んでいく。
「選手宣誓」
 選ばれた生徒たちが前に出る。その中に珍しい宍色の男子生徒がいる。先日、遠足で遭難した際に迎えに来た少年だ。
「あ、錆兎だ。やっぱり強いな」
「ていうか知り合いだったの?」
「道場の先輩になった」
「先輩? 中等部の子だよね?」
「そうだけど、錆兎は俺より強いよ」
「そうなのか……」
「そいつ、強いのか?」
 伊之助がそわそわしながら首を伸ばす。
 立ち上がりかけた伊之助の襟首を炭治郎が掴んで座らせた。高校生にもなって、じっと座っているのが我慢ならないらしい。
「強いよ。俺じゃまだ勝てない」
 きっぱりと炭治郎が言う。
「ほら、もうすぐ開会式が終わるからね」
 視線の先で、冨岡が無表情のままマイクを握った。さすがに青いジャージの上着を脱いで、白いシャツ姿だった。
 高揚の一切感じられない声で、冨岡は宣言した。
『それではキメツ学園、第八〇回体育祭を始めます』



02



 体育祭の時期の用務員は大変忙しい。
 綱引きの綱、玉入れの玉、大玉転がし用の玉、ラインカー、バトン、コートブラシ、その他諸々。若手の体育教師である冨岡と共に必要なものを点検し、数を数え、足りない場合は発注する。体育祭の前から大忙しだ。
 当日でも休まる暇がない。
「村田さん、バトンが足りないみたいなんですけど」
「えっ⁉ ちょっと多めに用意したはずなのに」
「すいませーん、ラインカー今どこですか?」
「あ、それはうちが使ってます」
「じゃあ次、貸してください」
 始まったばかりでこの調子である。
 村田は汗ばむ陽気の中で忙しく立ち回る。
 冨岡が小走りに近づいてきた。
「村田、俺の笛を見なかったか?」
「お前がいつもぶら下げてるやつ? 今日はつけてなかったのか」
「紐が切れていた。見当たらない」
 冨岡が紐を片手に眉を寄せた。冨岡の胸を見るが、たしかにいつも見慣れている笛がない。
「落とし物は届いてないけど……予備はあるのか?」
「体育教官室に」
 冨岡が難しそうな顔をした。
 体育祭の進行も担当している冨岡がこの場を離れるわけにはいかない。
「じゃあ、俺が代わりに取ってくるよ」
「頼む」
「おう、任しとけ」
 いくつか指示を出し、村田は校舎へ向かった。


 人気のない校舎は不思議といつもより広く感じる。
 教室や廊下の電気も消されているため、昼間にもかかわらず薄暗い。見慣れた校舎のはずなのになんだか不気味さを感じて、村田は足を速めた。
「無人の校舎とか、怪談話の定番じゃないか……」
 考えすぎだろうか。最近、怪異事件に遭遇しすぎているせいで、過敏になっているのかもしれない。
 キメツ学園周辺ではどうにも淀みが多く、怪異が出現しやすかったが、竈門炭治郎の一件から、更に遭遇する割合が高くなった気がする。
「いやいや、まだ昼間だし」
 怪異事件は時も場所も選ばないが、とりあえず考えるのをやめた。
 渡り廊下を渡って、体育館の隣に設置された体育教官室に入る。
 ぱちり、と部屋の電気をつけた。
 白い蛍光灯の光が薄闇を払う。
「えーっと、引き出しの一番上だったかな」
 勝手に人の引き出しを開けるのにやや罪悪感を覚えながら、村田は引き出しを開けた。視霧の中にきれいに整理された文房具が並んでいる。
 すぐに笛は見つかった。
「ん? なんだこれ」
 閉めようとした引き出しの奥に、ちらりと何か白い袋のようなものが見えた。お守りのようにも見える。かすかに甘い匂いがした。どこかで嗅いだことのある匂いだったが、はて、何だっただろうか。
 正直に言って、気になる。だが、人の引き出しをじろじろ見るのも悪い。村田は誘惑を振り払って引き出しを閉めた。
 早足で教官室を出て、グラウンドのテントの下に立つ冨岡に駆け寄った。
「おーい、冨岡。笛あったぞ」
「ありがとう」
 切れた紐を笛に通して、冨岡は首から笛を提げた。
 やはり、いつも通りの姿がしっくり来る。
「進行はどんな感じ?」
「問題ない」
 テントの中では、体育祭実行委員の生徒がマイクに向かって喋っているところだった。
 アナウンスがグラウンドに響き渡る。
『次は徒競走です。高等部一年生は入場門に集まってください』


 スタートラインに立つ冨岡が片耳を塞ぎ、スターターピストルを握った片手を上げた。
 クラッチスタートの姿勢で、善逸は顔を上げる。
 足が速いことが貴重な取り柄の善逸にとって、徒競走は女子にちやほやされる絶好の機会だった。
「位置について、用意――」
 発砲音と共に、善逸は飛び出した。
 隣より一歩先に走り出す。そのまま勢いを緩めることなく、ゴールまで一直線に走る。走る。
 他の走者を引き離したまま、善逸はゴールテープを切った。
「一着、B組、我妻善逸」
 放送で名前を告げられて、善逸はほくそ笑んだ。これで女子の耳にも善逸の名前が残るはずだ。
「善逸、やっぱり足が速いな」
 出番が終わってたむろしている中から炭治郎が駆け寄ってきた。
「この調子でリレーも頑張れよ」
「もちろん」
 女子たちにきゃあきゃあ囲まれる未来を想像しながら、善逸はにやにや笑った。


 走り終わった生徒たちの方をなんとなく眺めていた村田は、何か見たくないものを見た気がして目をこすった。疲れているのだ、そうに違いない。
 一着の印を胸に貼りつけられて喜ぶ善逸の後ろに、黒っぽいもやが見えた。
 そっとピストルを握る冨岡に近づき、耳打ちする。
「なあ、あれ、見えるか」
「どれだ」
「あの、走り終わったのが待機している方、ほら、今我妻が立ってるあたり」
 冨岡がつ、と視線を走り終わった生徒の方に向けた。表情は変わらないまま、ひとつ瞬きした。
「あれってもしかして」
「怪異だな」
 あっさり冨岡は肯定した。
「なんで! こんな時に! 余計な仕事を増やしやがって!」
 村田は頭を掻きむしった。小声で悪態を吐く。こんなに人が多い中で怪異退治だなんてとんでもない。何を考えているのか。
 ――いや、怪異にそんな事情は関係ないのだった。
「とりあえず、徒競走が終わったら見回りをする」
「……ですよねー!」



03



『それでは中等部二年、徒競走です』
 アナウンスの声が告げる。
「鱗滝くんがんばってー!」
 きらきらとした瞳で頬を上気させた女子が声援を送る。
 アイドルよろしく取り囲んでくる女子たちの間を通りながら、錆兎は軽く手を振ってそれに応えた。
「いいなー、鱗滝は。女子に大人気じゃん」
 同じクラスの男子が羨ましそうに女子たちを見つめる。女子は錆兎に釘づけで、その後ろを歩く他の男子には目もくれない。
「ありがたいことにな」
「何だよその言い方。お前本当に中学生なのか?」
「俺も女子にいいところ見せたい」
「いや鈴木は鱗滝に勝ったことないだろ」
「う、うるせー! 今日こそは!」
「んなこと言ったって、すぐに足が速くなったりしねえよ」
「今日こそは! 鱗滝に! 勝つ! そして女子に囲まれたい!」
「……だからお前はモテないんだよ」


「錆兎、大人気ですね」
 保護者席に座る鱗滝左近次の左隣で、体操着姿の真菰がのんびり言った。空いた席にちゃっかり座っている。天狗面の鱗滝に恐れをなしたのか、隣は空いていたのだ。
「あんなに女子に人気なんて、なんだか妬けちゃうなあ」
「うむ。儂も鼻が高い」
「お前の面の鼻が高いわ」
 鱗滝の右隣から声がした。
 背の低い白髪の老人――善逸の養父、桑島が杖を片手に座っていた。
「だいたい、こんな時にまでその面はなんだ。いつまで被っているつもりだ」
「これはこれは桑島殿。久しぶりですな。まだ天に召されていませんでしたか」
「ふん。あと二〇年は生きるわ」
「お元気そうで何より。なら、儂はあと三〇年」
「絶対にお前の死に顔を見てやる」
 桑島の後ろに立つ青年が、ぎょっとしたように桑島を見下ろした。短い黒髪に、きつそうにつり上がった目。私服姿なので、キメツ学園の生徒ではない。大学生だろうか。誰かの兄かもしれない。
「お二人とも、仲がいいんですね」
「真菰、それは違うぞ。こいつとはただ付き合いが長いだけだ」
「腐れ縁という奴じゃな」
 間髪入れず、鱗滝と桑島が答える。あまりにも息ぴったりだった。
「十分仲いいだろ……」
 呆(あき)れたように青年が呟く。
「うちの善逸だって」
「何を言う、錆兎の方が」
 互いの養子を自慢しあう折り合いの悪い二人を見ながら、真菰はにこにこ笑った。
「……ったく、毎年これかよ」
 青年が舌打ちした。

          *

 日差しが中天へ昇り、ますます気温が上昇していく。日差しがきつい。
『次は学年混合、玉入れです。高等部の皆さんは集まってください』
 アナウンスを背に、村田はせっせと玉を運んだ。実行委員会だけでは人手が足りず、教師も総出で玉を用意している。
「これで最後か?」
「ああ」
 ふう、と息をついて、村田は髪を掻き上げた。
 グラウンドいっぱいに籠が立てられている。その支柱の足下には赤と白の玉。
 この競技は生徒たち自身で玉の数を数える。冨岡の手も空くはずだ。
「じゃあ、見回りするか」
 冨岡が無言で頷いた。


「えっと、まずは徒競走やってたあたりから」
 二人でグラウンドの隅を歩いてみるが、特に何の異常もない。
「怪異は負の感情を引き金にするから」
「体育祭という特別イベントがあると、その分だけ淀みもたまりやすいってこと?」
「そうだ」
「それでキメツ学園の周りって怪異が多いのか……」
「精神的に未熟な子どもが多いからな」
「もしかして、それで教師を目指そうと思った?」
「……」
「え、何、図星なの?」
「――いたぞ」
 村田の質問に答えず、冨岡が校舎の壁を指さした。
 黒っぽい影のように揺らめく蜘蛛が壁に張りついている。
「うえ、あんなところに……って、冨岡⁉」
 冨岡が助走をつけて、花壇で踏み切った。
 窓のサッシを掴み、校舎の外壁に着地。黒髪が重力にひかれて垂れ下がる。そのまま勢いを殺さず、壁を垂直に走り出した。背中でぴょこぴょこと雑に束ねられた髪が跳ねる。
 冨岡に気づいたのか、蜘蛛がかさかさと壁を移動し始めた。
「嘘でしょ⁉ お前ほんとに人間なの⁉」
 あんぐりと口を開ける村田を置き去りに、冨岡は蜘蛛を追跡していく。



「あれ、今、冨岡先生が壁を走っていったような」
 玉入れ一回戦を終え、グループの代表が玉を数える間、座っていた炭治郎は呟いた。
 青いジャージに癖毛の黒髪。後ろ姿しか見えなかったが、あれは冨岡だった。
「いくら冨岡先生でもそれはないでしょ」
「壁を走るってなんだよ」
 隣からツッコミを受けて、炭治郎は納得がいかない顔をしつつも頷いた。たぶん、何かの見間違いだったのだろう。たぶん。
「さすがに義勇さんでも壁は走れないよね……」



「壁を走るとか本気か⁉ 何考えてるんだ⁉」
 蜘蛛を握りつぶして消滅させた冨岡が地面へ降り立つと同時に、待ち構えていた村田は腰に手を当てた。
「見られたらどうするの⁉」
「……」
 すっ、と冨岡が視線を外した。茫洋とした眼差しが斜め上を向く。
「あ、お前、何も考えてなかったな!」
「……」
「……まあいいや、怪異も退治したし。ていうか素手でもできるんだな」
「これくらいなら竹刀がなくても」
「そうね、もっと早く言ってほしかったね⁉」
「最近できるようになった」
「そういうことは申告してほしいかな⁉」
 ひとしきり言いたいことを吐き出し、村田は我に返った。
「待って、最近できるようになったって?」
「ああ」
「……冨岡さ、それ、大丈夫なの?」
「何がだ?」
「何がって……例の、えっと、契約とか」
「契約に変更はない」
 冨岡が頬を撫でた。白い頬はきれいなものだ。渦を巻いた痣は見当たらない。
 疑いの眼差しで冨岡を見るものの、何も言うつもりはないらしい。こうなってしまったらお手上げだ。村田では冨岡の口を割らせることはできない。
 それが、高校時代からの友人を自負してきた村田にとって歯がゆい。
「……これで、怪異退治は終わりか」
「いや、まだだ」
 冨岡の視線を追いかけ、村田もそちらに目を向けると、
「うわ……まだいるの……」
 蜘蛛が数匹、中等部の教室の窓を這っていた。



04



『――午前中の競技は終了しました。昼休みは一三時までです』


「ねえ、狛治さん。一緒にお弁当食べましょう」
 おっとりとした印象の女子が背の高い男子の腕を取った。二人の薬指にはそろいの指輪が嵌められている。
 善逸は血涙を流しながら二人を見つめ、ぎりぎりと歯ぎしりした。
「素山先輩、羨ましい、羨ましすぎる……高校生のくせに結婚するなんて! あんな美人と!」
 汚い高音でわめく善逸から周囲が一歩距離を取るが、構わず炭治郎は立ち上がった。
「俺は禰豆子と母さんたちと食べるけど、善逸は? お兄さん来てるみたいだけど」
「兄貴が? 兄貴も来てるのか?」
 思わず声が上擦って、ぐるりと善逸は保護者席を振り返った。
 テントの中、養父の後ろに立つ獪岳を見つけて、途端に善逸は黙り込んだ。
 視線がばちりと噛み合う。
 互いにすぐ視線を逸らした。
 桑島の隣に座る天狗面に錆兎が走っていく。錆兎が獪岳に何か声をかけ、鱗滝とその隣の女子と一緒に移動するのを見て、善逸は静かに立ち上がった。
「なあ炭治郎、一緒に食べてもいい?」
「うん、いいけど。それでいいの?」
「いいんだよ」
 炭治郎が口をぎゅっと引き結んで、眉を寄せた。
「お兄さんと仲直りしたんでしょ?」
「あのね、段階ってもんがあるの。みんながみんな、炭治郎みたいな奴じゃないの」
 なおも納得のいかない顔をする炭治郎の背を善逸は押した。
「とりあえず弁当取りに行ってくるから、待っててよ」

          *

「すみませんね、俺もお邪魔しちゃって」
 村田はへらりと笑った。
 グラウンドの隅に用意されたテーブルで、冨岡と鱗滝、錆兎、真菰と共に座る。鱗滝が相変わらずの天狗面をつけたままなのだが、誰も気にしていない。どうやって昼食を摂るつもりなのだろう。
「錆兎、一位おめでとう」
「ああ、ありがとう、真菰」
 おにぎりを食べている冨岡が無言で頷いた。頬に米粒がついている。
 流れるような動作で、錆兎が冨岡の頬についた米粒を取ってやった。そのさまがやけに板についている。
 当然のような顔で冨岡はそれを受け入れる。
 これでは、どちらが年上かわかったものではない。
「そういえば錆兎、中等部のリレーでアンカーだったよね」
「ああ」
「ふふ、錆兎ってすごいんだよ。女子に大人気でね」
 真菰がいたずらっぽく笑いながら冨岡をつついた。
「恥ずかしいからやめてくれ」
 照れくさそうに錆兎がはにかんだ。
「そういえば保護者リレー、先生も出る?」
「そうだな」
「先生、無理はしないでくださいよ」
「なに、儂もまだまだ若い者には負けていられない」
 鱗滝がお面をずらして、おにぎりを一口かじった。
 口元だけだが、素顔を目撃した村田は驚いて、箸でつまんでいたほうれんそうのおひたしを取り落とした。
 冨岡は平然としている。錆兎も真菰も何も言わない。これが通常らしい。
「あ、保護者リレーは教員リレーの前にやるので、後で登録をお願いします」
「そうか」
 もごもごとおにぎりを咀嚼し終わった冨岡が水筒のお茶を飲んだ。
 流れるような動作で錆兎がおしぼりを渡す。冨岡は手を拭いて、口の周りを拭いて、
「義勇、まだ米がついてる」
「もう、義勇が錆兎の弟みたいじゃない。いつまでそんな子どもっぽいことしてるの」
 ふわふわ笑いながら真菰がぐさりと刺した。
 無言で一瞬固まった冨岡の肩を叩いて、村田は席を立った。
「それじゃあ俺たちは午後の準備をしてくるので」
「いってらっしゃーい」
 真菰が手を振った。



05



「昼休みの間に終わらせる」
「そうだな。あんまり放っておくのもよくないし」
 体育祭の進行を担う冨岡の姿が長時間見えないのは、立場上まずい。なるべく早く怪異を退治して戻らなければならない。
 できれば、午後の競技が始まる前に終わらせたい。
 話しながら、村田は冨岡と連れだって中等部の校舎に入った。
 昼食はグラウンドか中庭、体育館、食堂で摂る生徒が多い。校舎はほとんど無人だった。
 念には念を入れ、蜘蛛のいた中等部の教室付近には、人避けの呪符を貼っておいてある。目撃者になりそうな人影はいない。
「しっかし、こうも人がいないと気味が悪いというか。午前中もそうだったけど」
 生気を失った校舎はあまり好きになれない。窓の外からかすかに聞こえるざわめきがなければ、まるで別世界のような気さえする。
「まだ昼間だぞ」
「そうだけどそうじゃない」
 がらり、と引き戸を開けて村田と冨岡は教室に入った。
「蜘蛛、だったよな」
「蜘蛛と言えば女郎蜘蛛だが」
「そんな恐ろしい名前出さないでくれる……?」
「学校に出る怪異としては珍しいが」
「ねえちょっと冨岡、聞いてる?」
 独り言めいた呟きを落としながら、冨岡は教室を一周した。カーテンの影を覗き込み、窓のサッシをなぞる。
 村田も机の間を歩いてみる。
「何にもないけど、そっちはどう?」
「この教室から移動してしまったのかもしれない」
「教室ひとつずつ見て回るしかないか……めんどくさ……」
「仕方ないだろう」
「ていうか昼休み中に終わらせるとか無理じゃない?」
 ぼやきながら村田は教室の後ろまでたどり着いた。黒板には誰かの落書きと、プリントが貼ってある。
「そうだ、学園に人避けの符を貼っておいて、体育祭が終わった後に見回りするとかどう?」
「着替えに生徒が戻ってくるだろう」
「あー……そっか、だめだわ。どうしよう」
 考えあぐねて村田が顔を上げた時、

 かさ、と視界の隅で黒い何かが動いた。

 冨岡も振り向いた。
「見たか?」
 こくりと冨岡が頷く。
 そうっと村田は首をめぐらせ、それを見る。
 やや平べったい、黒光りする背中。頭から飛び出た二本の触覚が左右に動いている。細い足が何本も身体の左右から伸びている。

 ――名前を言ってはいけない例のあの虫だった。
 
「ギャアアア⁉ ゴキブリ⁉」
 思わず叫んだ拍子に、村田はがたんと机に脛を強打した。
「いってええ!」
 足を押さえて悶絶している間に、かさかさかさ、と細い足が驚異的なスピードで動き、ゴキブリは逃げ出した。
「無理! 俺虫は無理!」
「うるさい、騒ぐな」
 冨岡が机に手をついて、ひょいと跳び超えた。軽い音を立てて着地し、ゴキブリの進行方向に立ちはだかる。
 ぶん、とゴキブリが羽を広げて、方向転換。
 村田めがけて飛んだ。
「うわああこっち来るな!」
 あわあわと手を振り回したが、ゴキブリはぶんぶん飛び回る。
 村田は後ずさって後ろの机に腰を強打した。息を詰めて涙目でしゃがみ込む。
 村田の頭上を飛び越え、ゴキブリは背後の黒板に着地した。そのまま垂直に黒板を上っていく。
「逃がすか!」
 机を踏み台代わりに冨岡が跳んだ。いつの間にか上履きを脱いでいる。こんな時でも机を踏まないようにするんだなと余計なところで感心した村田の目の前で、

 スパアン! と冨岡の右手に握りしめられた上履きが、ゴキブリにクリーンヒットした。
 
 ぜえぜえ息を吐き、村田は膝に手をついた。脛と腰が痛い。たぶん青あざができているだろう。たかが虫ごときでこのざまだ。
「下手したら、怪異より、手強いんじゃ、ないか」
「虫は好きじゃない」
 かすかに眉をひそめた冨岡が言う。白皙の相貌はいつも通り涼しげで、息ひとつ乱していない。
 こいつ本当に人間なのか、と村田は疑った。
「俺、体育祭が終わったらホウ酸団子注文する……絶対、学校中に仕掛けてやる……」
 死亡フラグみたいなことを言いつつ、村田は息を整えた。
「で、蜘蛛はどこ行った?」
「見失った」
「……うん……そうだよね……」
 こうなれば、教室をひとつずつ見て回るしかない。さすがに時間が厳しいだろう。
 ひとまず二人で廊下に出る。
「どっちに行ったと思う?」
 右を見ても左を見ても、蜘蛛の姿は見当たらない。
 電気の消された廊下が伸びている。無人の校舎の物静かな雰囲気のせいか、窓から差し込む光も陰って見える。廊下の先に、薄い闇がわだかまっている。心なしか、いつもより廊下が長く感じられる。
「……いや、なんか、おかしくないか?」
 いくら照明がついていないからといって、廊下はこんなに暗かっただろうか。こんなに長かっただろうか。
 校舎は、こんなに広かっただろうか。
 すう、と冨岡が鋭く息を吸い込んだ。
 空気が冷えていくのを肌で感じる。
「あっちだ」
 冨岡は廊下の先を指さした。


 音もなく、蜘蛛が数匹、廊下を這っていた。

          *

「あれ? 冨岡先生は?」
「教室の方に行ったようだが」
「まだ戻ってないの?」
「ええ、どうしたんでしょう。次の競技、始まっちゃいますよ」
「村田もいないぞ」
「どうしたのかしら」
「どっかでサボってるのか?」
「嫌ね、宇随先生じゃないんだから。冨岡先生がそんなことするわけないでしょう」
 保護者席に鱗滝を送った後、教師たちの横を通り過ぎた錆兎の耳にそんな会話が飛び込んできた。
 何やら慌てた様子で冨岡を探しているようだ。
「冨岡先生、いないんですか?」
 ひょっこり顔を出した錆兎に驚いたように、胡蝶カナエが振り返った。いつもは下ろしている長い黒髪をまとめあげている。冨岡とは似ても似つかない、手入れされた真っ直ぐな黒髪が白い首筋にかかる。
「鱗滝くん? そうなの。冨岡先生、昼休みから戻ってきていないみたいで」
 カナエは困ったように眉を下げ、手を顎に当てた。
「え? 準備するって早めに昼休みを切り上げていきましたけど」
「そうなの? でも誰も見ていないのよ。おかしいわね……」
 たしかにおかしい。あの冨岡が、体育祭を放り出して消えるはずがない。そういうところは几帳面な性格をしているのだ。
 村田と二人でいなくなっている、というのも気がかりだ。あの二人はずっと、何かを隠している。
 無意識に、錆兎は口元を触っていた。そこには白い傷跡がある。昔ついた傷だ。この傷がついてから、冨岡はどこか様子が変わっていった。
「やっぱサボりだろ」
「そんなわけないでしょう、もう。それとも宇随先生が探してきてくれる?」
「は? めんどくせー」
 臆面もなく宇随が言い放った。他の教師陣も目を逸らした。面倒ごとは嫌らしい。仮にも行方がわからないのに、進んで探しに行こうともしない。
「もしかして義勇、嫌われてるのか……?」
「え? 何?」
「何でもないです」
 女性としては長身なカナエを見上げながら、錆兎は提案した。
「俺、探してきますよ」
「でも、鱗滝くん、競技があるでしょう」
「まだ出番は先なので大丈夫です」
「あらそう? じゃあ頼んでもいいかしら。ちょっと準備で手が離せなくて」
 おっとりとカナエは微笑んだ。

          *

 進んだ廊下の先で、どろり、と濃い闇がわだかまっている。
 廊下の先には音楽室がある。教室の隣には階段がある。窓がない分、更に暗い。
 わずかに開いたドアの隙間から、蜘蛛は吸い込まれるように教室へ入っていく。
 窓の向こうから聞こえていた声援が消えていることに気づいた。
 急激に不安が大きく膨れる。嫌な予感がする。そして、村田の嫌な予感というのは、たいてい外れたことがないのだ。
 心なしか、気温も下がっているような気がする。
「なあ、冨岡――」
「静かに」
 冨岡が低い声で遮った。ジャージのポケットに手を入れる。そこには竹刀を呼び出すための緊急用の呪符が入っている。
 冨岡がドアに手を掛けた。一気にドアを開ける。

 教室の中は蜘蛛で埋め尽くされていた。

 壁と言わず天井と言わず、小さな黒い蜘蛛が這い回っている。この世の者ならざる存在らしく、蜘蛛からにじみ出た影がその輪郭をかすませている。
 窓にもびっしり張りついた蜘蛛が日の光を遮っている。
 黒いグランドピアノの表面が不気味にうごめいている。よくよく見れば、そこも蜘蛛に覆われている。
「気持ち悪……」
 ぞわっと鳥肌が立って、村田は半袖から剥き出しの腕をさすった。
「どうする、冨岡」
 蜘蛛を一匹ずつ消滅させるのはかなり厳しい。村田はほとんど無力だし、冨岡の竹刀は大量の怪異を一掃するのには向いていない。
「相性が悪いが――」
 呟きながら、冨岡が呪符を取り出した。
 村田もポケットの呪符を確かめる。直接的な戦力にはならないが、目くらましくらいはできる。
「やるしかない」
 呪符が白い光を放つ。光は真っ直ぐ伸びて、やがて刀になった。
 冨岡が腰を落とし、教室に足を踏み入れた。村田も後を追う。
 ぐちゃり、と冨岡の足が蜘蛛を踏む。踏まれた蜘蛛は、ほどけるように黒いもやとなって空気に溶けた。
 ざあ、と蜘蛛が冨岡の周囲から警戒するように遠ざかる。
 リノリウムの床の上を、村田の上履きが踏みしめる。
 波が引くように、蜘蛛が教室の隅に集まっていく。やがて黒い塊のようになった蜘蛛が人型を形成する。
 互いの息づかいだけが聞こえる。
 張り詰めた空気の中で、村田は目を凝らした。
「あれは――」
 影のように揺らめくそれの頭から、角が生えていた。

          *

『次は中等部三年生、騎馬戦です』

「よし! 騎馬戦だ!」
 金髪に赤毛が入り交じった教師が大声で叫ぶ。
「煉獄先生、なんであんなに騎馬戦推しなんだろう」
 生徒用の観客席で、炭治郎は呟いた。
 高等部・日本史担当の煉獄杏寿郎は、何故かやたらと騎馬戦を推している。高等部の教師にもかかわらず、大声で中等部の競技に声援を送っている。煉獄はいつも大声だが、今日は更に磨きがかかっているようだ。
「えっと、選抜リレーまであといくつ競技あったっけ」
 隣では善逸がプログラムとにらめっこしている。
「まだまだじゃないかなあ。選抜リレー、最後の方でしょ」
「へへ、禰豆子ちゃんに格好いいところ見てもらうんだ……」
 炭治郎の言葉も耳に入らない様子で、善逸はだらしなく鼻の下を伸ばしている。お昼に禰豆子の手料理をお裾分けしてもらったのでご機嫌である。暑い日差しも何のその、禰豆子にいいところを見せるためには労力を惜しまないつもりのようだ。
 紅組と白組に分かれた生徒が四人一組で待機している。
 先頭に真菰の姿を見つけ、炭治郎は手を振った。
 気づいた真菰が手を振り返す。
 保護者席の鱗滝も、お面で表情は見えないが真菰を見守っているようだ。
 中等部の方を見やるが、そこに見知った姿がないことに炭治郎は首を傾げた。
「あれ、錆兎がいない……まいっか」
 最初の組がずらりと白線の前に並ぶ。手を組んだ三人の上に騎手が一人が乗っている。
 花形の競技らしく、中等部の方から声援が次々と飛ぶ。
 ぎらりと輝く太陽の下で、笛の音が鳴り響く。
 砂埃を立てながら、騎馬戦が始まった。

          *

 校舎に入った錆兎は、どこからともなく忍び寄る冷気に眉をひそめた。
 何かが妙だ。
 誰もいない校舎は静まりかえっている。窓の外から聞こえる賑やかな声も、ガラスを通すと遠ざかって聞こえる。
 それだけではない、何かいつもと違う雰囲気を感じる。気のせいだろうか。なんとなく、校舎に入りがたい気持ちになる。冨岡と村田を探さなければいけないのに、すぐにでも踵を返したくなる。
 頬を軽く叩いて、錆兎はいつの間にか止まっていた足を踏み出した。
 一階の教室を覗いてみるが、誰もいない。
「おーい、ぎーゆーうー」
 校舎の階段を上りながら、錆兎は呼びかけた。
 自分の声が反響する。返事はない。
 癖で中等部の方に来てしまったが、冨岡なら高等部を探した方がよかっただろうか。つい安請け合いしてしまったが、冨岡がどこへ行ったのかさっぱりわからない。
「困ったな……」
 錆兎の競技は午後の後半だが、あまり長居することもできない。
「村田さーん」
 二階に上がったところで村田の名前を呼んでみたが、何も返事がない。
 しかし、やけに廊下が暗い。快晴の昼下がりに、電気を消しているからといってこんなに暗くなるものだろうか。
 訝しんだ錆兎が足を止めたその時、足下を黒い影が横切った。
 視線を落とすと、蜘蛛がいた。数センチ程度の大きさの黒い蜘蛛は階段を上り、左に折れた。
 錆兎の後ろから、次々と蜘蛛が集まる。錆兎を追い越し、左折してその先へ吸い込まれていく。不思議なことに、蜘蛛から黒い影がにじみ出し、輪郭がぼやけて見える。
 この先には音楽室がある。
 錆兎は足を踏み出した。
「義勇、村田さん、いるのか?」
 名前を呼びながら左手に曲がる。
 ドアが開けっぱなしだ。おかしい。体育祭なのだから、誰もいないはずなのに。
 そういえば、先ほどから静かすぎる。窓ガラス一枚で外界と隔てられたように、奇妙に物静かだ。
 ぴりっと痛みが走った。錆兎は口元の傷跡を押さえた。ずいぶん前に完治したはずの傷跡が急にひりひりと痛み出す。
 ――何故か、とても嫌な気配がする。
 立ち竦みそうになる足を叱咤し、錆兎は音楽室に入った。
 やけに暗い教室の中で、二人が立っている。
 見覚えのありすぎる青ジャージとさらさらヘアの二人の背中に、錆兎はほっと息を吐き出した。
「義勇、村田さん、こんなところにいたのか。胡蝶先生が探して、いた……」
 続く言葉が途切れる。
 二人が向かい合うように立っている人影が目に入った。
 蜘蛛がその人影の足下に集結している。次々と影に飲み込まれるように、蜘蛛は溶けて消えていく。
 赤い瞳が錆兎を射貫いた。
 金縛りに遭ったように、錆兎は動けなくなった。
「錆兎、どうしてここに――!」
 振り返った冨岡が刀を握りながら、珍しく動揺したように瞳を揺らした。

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