06



 世界に焼きついた影のように。
 水底から浮かび上がる泡沫のように。
 どこまで逃げても逃げきれないのは、因果の糸の為せる技だったのだろうか。

 何もかもがぐちゃぐちゃだ。
 子どもの手すさびのように、ちぎってはつなげ、ちぎってはつなげ、歪に形成されたような、つぎはぎだらけのこの世界に投げ出されて、一体どうしろと言うのだ。

 ちぎれた糸を必死にたぐり寄せている。
 からからと回る糸車の音は、もう自分にしか聞こえない。



07



『次はキメツ学園名物、教員対抗リレーです』

 アナウンスの声に、カナエは表情を曇らせた。
「冨岡の奴、どこ行っちまったんだ」
 がしがしと短い髪を掻きながら、不死川実弥がぎょろりと瞳を動かした。
 体育祭だというのにマスクを外さない伊黒が答える。
「まだ見つからないのか。まったく、無責任な」
「冨岡先生に限ってそんなはずないわ、きっと何かがあったのよ」
「何かって何だよ」
「それは……わからないけど」
「――あの」
 声をかけられて、カナエは振り向いた。
 女子生徒が一人、遠慮がちに胸のあたりで手を握りしめている。
「うちのクラスの鱗滝くんがいないんですけど」
 言われて、カナエははっとした。そういえば冨岡を探しに行かせた錆兎も戻ってきていない。
「鱗滝くんにはちょっと用事を頼んでいるから大丈夫よ。新島さんは戻っていなさい」
 女子生徒を帰したカナエは校舎を見上げた。
「まさか、本当に何かあったのかしら?」

          *

「入ってくるな!」
 冨岡に鋭く一喝され、錆兎は立ち止まった。戸惑ったように、冨岡と村田を見比べている。
 ――人避けの呪符が効かなかったのだ。
 冷や汗をかきながら、村田はポケットをまさぐった。指先に乾いた紙が触れる。引っ張り出すと、人避けの呪符が五枚と目くらましの呪符が二枚。心許(こころもと)ない装備だが、これでやるしかない。
「とりあえず、俺は錆兎を」
「頼む」
 視線を怪異から逸らさず、低い声で冨岡が囁いた。
 じりじりと、怪異に背を向けずに村田は後ずさった。
 怪異は何もしない。ただ、揺らめく影のように突っ立っているだけだ。
 この期を逃してはならない。
「鱗滝、こっちだ」
 呆然と立っている錆兎の手首を掴んだ。
 藤色の瞳が村田を見上げた。
「義勇は?」
「俺たちは邪魔になるだけだ」
「でも」
 錆兎が冨岡を見る。なおも動かない錆兎に、村田はしびれを切らせた。
「いいから早く」
 有無を言わせずぐいっと錆兎の手を引っ張り、村田は廊下を駆け出した。一刻も早く校舎を出なければならない。
 あれを倒せるのは冨岡だけだ。村田には何もできない。たまたま迷い込んだ錆兎を逃がしてやることくらいしか。
 音楽室を出て右に折れれば階段だ。幸いにも追いかけてくる気配はない。
 そのままの勢いで階段を駆け下りようとした村田の手を、錆兎が振り払った。
「村田さん、俺は行けない」
「は⁉ 何言ってるの⁉」
「義勇を置いてなんかいけない!」
「馬ッ鹿、俺たちじゃ足手まといなんだよ!」
「そんなわけ、」
「お前はあれが何か知らないから……!」
 錆兎はくしゃりと顔を歪めた。
「いつもいつもそうやって! 俺を子どもだと思って!」
「お前はまだ子どもだよ! いいから行くぞ!」
 村田は錆兎の腕を掴んで階段に足をかけた。
 階段の下を覗き込み、動きが止まる。
 何か言い返そうとした錆兎も、階下の光景に思わず黙り込んだ。
「いやいや、冗談きついわ……」
 村田は顔を引きつらせた。

 階段の踊り場に、びっしりと蜘蛛がうごめいていた。

          *

『教員対抗リレー、一位は宇随先生です』
 名前を呼ばれた宇随は、得意げに観客へ手を振った。
 女子生徒から絶大な人気を誇る宇随に、きゃあきゃあと黄色い声が上がった。
「くそッ、今年こそは勝つつもりだったのに……!」
「おうおう、惜しかったな」
 地団駄を踏みかねないほど悔しげに、実弥は宇随を睨みつけた。派手な服装に派手な髪色で、教師にあるまじき格好だが、その恵まれた体躯は本物だった。
 毛を逆立てた様子に笑いながら、宇随は実弥の背中を叩いた。
 実弥も成人男性としては背が高い方だが、宇随はその上を行く長身だ。少し上から見下ろされ、実弥はぎりぎりと歯ぎしりした。
「ま、今年は冨岡がいねえからな」
「あいつ、本当に人間なのか怪しくなってくるぜ……」
 去年の風景を思い出し、苦々しく顔を歪めて実弥が吐き捨てる。冨岡とは数年来の付き合いだが、どうにもそりが合わない。
 去年、着任早々にリレーへ出場した冨岡は、まさしく疾風のようだった。他の教員を大きく引き離し、文句なしの一位。完全なる一人勝ちだった。
「あまりにも強すぎて出禁扱いになったってのも気にくわねえが」
「事実だからなあ。あいつがいたら競技が成り立たねえよ」
 宇随はちらりと校舎を見上げた。
 当の冨岡の姿が見当たらないのが、やや気がかりだった。
「伊黒さん⁉ 大丈夫ですか!」
 走り終わった途端、ばたりと倒れた伊黒に駆け寄る女性。桃色の長い三つ編みが背で踊っている。去年学園を卒業していった甘露寺蜜璃だった。
「……軟弱な奴」
「向き不向きってもんがあるんだよ」
 知ったような口を利く宇随を、実弥は睨み上げた。

『次は保護者リレーです。登録が終わっている方は入場門へ集まってください』

「あ、あの人って……」
「絶対、煉獄先生のお父さんでしょ」
「顔似すぎじゃないの?」
「そっくりっていうか……本人じゃないのあれ」
「たしか弟も同じ顔って聞いた」
「ああ、中等部にいるっていう?」
「うん。うちの妹が言ってた」
 生徒のひそひそ声をよそに、煉獄と同じ顔立ちをした壮年の男性が歩き出す。

「桑島殿には負けませんぞ」
「鱗滝殿も油断めされるな」
 武将みたいな口ぶりで言葉を交わす白髪の年配男性二人が並び立つのを、他の保護者は遠巻きにしている。

「煉獄先生のお父さんかしら」
 カナエが背伸びをして見やる。金色に赤毛混じりの独特の髪色に、凜々しい眉。眼力鋭い大きな瞳。どこからどう見ても、同僚である煉獄杏寿郎の血縁者だった。
 ちらりと視線をやった実弥はそっけなく返した。
「見りゃわかるだろ」
「……しっかし、煉獄家の遺伝子って強いな」
 宇随が目を細める。
「あっちの二人、去年もいらっしゃったわね」
「あの二人は名物みたいなものだろう」
 言葉と共に影が落ちて、カナエは頭上を仰いだ。同僚の一人、悲鳴嶼の巨躯がカナエに陰を作っている。
「数十年来の付き合いだと聞いた」
「まあ。素敵だわ」
「どこがだよ。いつまで経ってもガキみてえに」
 宇随に負けたのを真剣に悔しがっていた自分を棚に上げ、実弥が吐き捨てる。
「そこがいいんじゃないの」
「……わっかんねえわ」
 カナエは頬に手を当てた。
「でも、お二人ともだいぶお年を召していらっしゃるから、腰が心配だわ」



08



「ど、どうしよ」
 退路を断たれた焦りが手を震わせた。掴んだままの錆兎にもそれが伝わったのか、錆兎も青ざめている。
 こんなに蜘蛛がいては、ここから逃げることもできない。
 この怪異が校舎からあふれてしまったら、他の生徒や教員、保護者たちも危険だ。冨岡一人で退治できる量ではない。
 ドン! と重いものがぶつかる音がした。
 振り向いた村田の背後に、廊下まで飛ばされた冨岡が壁に背中を打ちつけて倒れている。すぐに起き上がって刀を構えたものの、動きがぎこちない。額から血が垂れている。
 教室から影のような人型の怪異が歩き出す。
 こちらは素手だ。触手が生えているわけでもないし、全身に目玉がついているわけでもない。頭から角が生えているくらいだ。背丈も並みの成人男性よりは高いが、二メートルには届かないだろう。筋骨隆々というほどでもない。
 怪異にしてはいたって普通の造形。それなのに、ぞっとするほどの迫力を持っている。
 圧倒的強者の気配。
「義勇!」
 我に返ったように、錆兎が叫んだ。
 村田は走り出そうとする錆兎の腕を押さえようとするが、
「あ、錆兎!」
 パチッと音がして、あっけなく振りほどかれた。
 錆兎はそのままの勢いで冨岡に駆け寄った。
 村田は自分の手を見下ろした。何かに弾かれるような感触がした。

「義勇! 大丈夫か⁉」
「錆兎、いいから早く逃げろ」
 冨岡は血をぐいっと拳で拭う。したたかに打ちつけた背中が呼吸をするたびに痛む。
「馬鹿言うなよ!」
 錆兎は心配そうに怪我の程度を確かめようとする。
 その手を冨岡は無情に振り払った。
「お前に何ができる!」
 気づけば怒鳴っていた。
 殴られたように、錆兎が動きを止めた。
 気づかないふりをして冨岡は怪異と向き合った。
 怪異がゆっくりと冨岡に顔を向ける。見知った誰かに似ているような気がするが、何故か顔の造作ははっきりしない。誰かの面影を写し取ったような、そんな感覚。
 ただ、その貌に嵌まった瞳だけが鮮烈に視界に焼きつく。
 ――赤い瞳だった。縦に裂けた瞳孔。
「お前は――鬼なのか」
 怪異は答えない。
 話せないのか、話す気がないのか。
 どちらにせよ、同じことだ。
 冨岡は刀を握りしめ、駆け出した。頬が焼けつくように熱い。
 怪異が拳を構える。まるで人間みたいだ。今までのどんな怪異よりもずっと、人間らしく振る舞っている。
 狙うは、額の角。それ以外、この怪異を倒す術はない。
「――ッ」
 白刃から水飛沫が散った。
 頭上から振り下ろした刀を、怪異は左腕で受け止めた。
 動きが止まった冨岡のがら空きの胴体に右腕が飛んでくる。
 防御が間に合わない。
「冨岡!」
 悲鳴じみた村田の声。
 次の瞬間、冨岡の身体は宙を舞っていた。

          *

「鱗滝さん、大丈夫ですか?」
「す、すまん……儂はもう……」
「先生!」
 珍しく取り乱した真菰が鱗滝にしがみつく。
 鱗滝は滝のような冷や汗をかきながら、真菰の頭を撫でようとした。途端にずきりと痛みが走り、呻いて手を止める。
「桑島さんは? どうです? 動けますか?」
「う……」
「爺ちゃん! 爺ちゃん死なないで!」
 うめき声しか漏らさない桑島にすがりつく善逸の頭を、獪岳が力いっぱい叩いた。
「痛ッ、全力で殴らないでよ兄貴!」
「お前は大げさなんだよ……ジジイのくせに無理するからだろ」
「儂は……まだまだ若いもんには負けん……」
 桑島はうわごとのように呟く。
「うるせえ、自分の年を認めろ」
「お二人ともぎっくり腰ですね」
 保険医の珠世が診断を下した。
 獪岳が頭を下げた。
「すみません、ジジイがご迷惑をおかけしました」
「本当ですよ、もう若くないんですから、激しい運動は控えるように注意なさってください」
「儂はまだ……」
「何言ってんだクソジジイ。いい加減諦めろ」
「そうだよ、先生もあんまり無理しないでよね」
 珠世の診断を聞いて、すぐさま冷静さを取り戻した真菰が腰に手を当てる。
「すまん」
 養い子に説教された鱗滝は、わかりやすく肩を落とした。こんな時でも天狗面は外さないので、表情は窺えない。
 やれやれと肩を竦めた獪岳がスマホを耳に当てる。
「爺ちゃん……爺ちゃん……一人にしないでえええ……」
「阿呆かお前は。ぎっくり腰で死ぬか」
 ぐずぐずと鼻をすする善逸の頭をもう一発叩いて、獪岳はタクシーを手配した。
「まだ競技あるんだろ。そのみっともない顔をなんとかしろ。それで負けたら許さねえ」
 ポケットティッシュを善逸の顔に押しつけながら、獪岳は早口で言った。視線は合わせない。
「あ、ありがと兄貴……」
 おっかなびっくりといった顔で、善逸はティッシュを受け取った。
 アナウンスが流れる。
『それでは最後の競技、中等部・高等部混合、選抜リレーを始めます。選手は位置についてください』
 鼻をかんでいた善逸は顔を上げた。
「……行ってくる」
 獪岳はひらひらと手を振った。

 中等部では、ちょっとした騒ぎになっていた。
「ねえ、鱗滝くん見た?」
「そういえばさっきからいない」
「え⁉ どうすんの? 選抜リレー出るんでしょ?」
「最終走者だよね」
「ちょっと俺、探してくる」
「何してんの鱗滝」
「どっか行っちゃったのかな」
「あんな真面目な奴がどっか行くなんておかしいよ」
「急に具合が悪くなったとか……」
「私、救護テントの方見てくる」
「えっと、補欠は?」
「田島くんだよね」
「じゃあ田島くん呼んできて」
「え、でも……」
「仕方ないでしょ、鱗滝くんいないんだから」

          *

 閃光が視界を真っ白に染めた。

 一瞬動きを止めた怪異の胴を蹴って、冨岡は距離を稼ぐ。
 しかし、完璧には躱せず、怪異の腕が脇腹をかすめた。
 それだけで身体が軽く跳ね飛ばされ、ごろごろと廊下を転がった。
「は――ッ」
 喉の奥から空気を吐き出した。肺が軋む。
 冷たい床の温度を頬に感じる。背中の痛みは治まらない。しびれたように身体が動かない。
 視線だけを上げて、手放してしまった刀を探した。
「冨岡生きてるか⁉」
 村田がばたばたと駆け寄ってきた。肩の下に腕を入れられ、身体を起こされる。その手に呪符が握られている。先ほどの目くらましは村田がやったらしい。
「俺はいいから、刀を――」
 頭上に影が差し、冨岡は村田の肩を掴んで横に転がった。

 地鳴りがした。

 先ほどまで倒れていた場所を、怪異の足が踏み抜いた。
 建物全体が揺れたような気がした。
「何だあいつ、今まででいちばんやべえ奴じゃん」
 軽く言う村田の腕は震えている。
 怪異が仁王立ちし、冨岡と村田を見下ろした。その背後に刀が転がっている。
 生身で敵う相手ではない。まずは刀を拾ってこなければならない。
 だが、そのためには怪異をやり過ごさなければならない。
 ――どうすればいい。冨岡はほぞを噛んだ。
「村田、目くらましの呪符はまだあるか」
「あと一枚だけどね」
 気丈に村田が返す。呪符を握りしめている。
「俺は刀を拾いに行く。怪異が俺を襲おうとしたら、それを使え」
「そんな無茶な! あいつの脇をすり抜けていくって?」
「そうだ」
「無茶言うなよ!」
「だが、それしかない」
 でなければ、ここで全員死ぬだけだ。
 いや、死ぬのが三人で済めばいい。この怪異が校舎の外に出ることがあれば、被害は拡大する。それだけは避けなければならない。
 その時、転がる刀を拾う手があった。
「俺がやる」
 刀を握った錆兎が静かに言った。
「無理だ!」
 冨岡は反射的に叫んだ。
 怪異がぐるりと振り向いた。
「やめろ! 錆兎!」
「いや、やめない」
 錆兎が刀を構えた。刀身が淡く発光している。
 錆兎を敵と見定めたのか、怪異が錆兎に向き直り、腰を落とした。
「待て、錆兎!」
 怪異が地を蹴った。
 ありえないスピードで怪異が腕を振るう。握られた拳が風を生む。
 錆兎が横に跳んだ。
 怪異の拳が窓ガラスを粉砕した。
 ぎょろりと赤い瞳が錆兎を追跡する。
「はアッ」
 錆兎が刀を胴体に叩き込もうとする。
 怪異が刃を受け止めた。
 ぎりぎりと力比べをするように、錆兎が刀を押し込む。腕に血管が浮かび上がる。
 だが、怪異も譲らない。
「錆兎!」
「うわッ」
 怪異が錆兎を押しのけた。
 倒れそうになった錆兎の頭上に拳が落ちる。
 素早く体勢を立て直して錆兎は後ろへ跳んだ。
 追撃に移ろうとしたその瞬間。

 再び、白い光が廊下に炸裂した。

 目を覆った怪異に、冨岡が体当たりする。そのまま床に押し倒した。
「やれ、錆兎!」
「この、化け物が――!」
 錆兎の振り上げた刀が、怪異の脳天を直撃した。
「――――――ッッ」
 怪異が咆哮した。手足を振り回して冨岡を振り落とす。
 廊下を転がる冨岡。
 肩で息をしている冨岡を、村田が助け起こす。
 怪異が頭を抱えてうずくまった。耳障りな声が空気を震わせる。窓ガラスがビリビリと振動する。
「――――ッ――ッ」
 なおも咆哮し続けながら、怪異が自分の腹を殴った。
 冨岡は目を疑った。だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。反撃しないのなら好都合だ。
「角だ! 角を落とせ!」
 錆兎に向かって叫ぶ。
 錆兎が刀を握りしめた。目の錯覚などではなく、刀身が発光している。
「――これでも食らえ!」
 下段から振り抜いた白刃が、怪異の角を切り落とした。



09



「悪い! 遅れた!」
 息せき切って待機列に飛び込んできた錆兎に、同級生の男子生徒は大きく目を見開いた。
「お前ッ今までどこ行ってたんだよッ」
「悪い、ちょっと用事があったんだ」
「何でもいいから早く並んで!」
 同級生に急かされ、錆兎は急いで列に並んだ。補欠だった男子から最終走者のたすきを受け取る。
「悪いな田島」
「いや……俺よりも鱗滝の方が足早いし。頼んだぞ」
「わかってる」
 意気込んで錆兎は頷いた。

          *

「ちょっと冨岡先生! どこ行ってたの!」
「サボりか?」
「……違う」
「何でもいいから、そこ座って!」
 カナエは半ば本気で怒りながら、冨岡を椅子に座らせた。
 カナエの迫力に、悪態を浴びせていた実弥は黙り込んだ。
 村田の肩を借りながら歩いてきた冨岡は、どこかぐったりしていた。いつもぼさぼさの髪が更に乱れている。
 村田が申し訳なさそうな顔をした。
「悪い、胡蝶先生。こいつが階段で足を滑らせてさ、いちばん下まで落ちてったんですよ。それで手当してたらこんな時間に」
 冨岡の白い額に血がにじんでいるのに気づいて、カナエは眉をつり上げた。
「やだ、義勇くん、怪我してるじゃない!」
「大した怪我じゃない」
「そんなこと言って! 村田さん、他はどこ打ったんですか?」
「あ、ええっと、背中かな。結構強めにぶつけたみたいなんで」
「頭打ったりしました?」
「あー、そういえば頭も打ちましたね」
「そう。じゃあまず、背中をちょっと見せてください」
「え、ここで、いや待ってくれ、」
「待ちません!」
 抵抗むなしく、冨岡はカナエにジャージを剥かれた。
「すまん、冨岡。俺には無理だ」
 村田が両手を合わせる。
 実弥と宇随の憐れむような視線が冨岡に突き刺さった。

          *

 先頭走者と僅差で高等部の生徒にバトンを渡した錆兎に、クラスメイトがわっと駆け寄った。
「やったー!」
「鱗滝よくやった!」
「見つからなかった時はどうしようかと思ったけど! ほんとハラハラした!」
「すまなかった」
 もみくちゃにされながら、錆兎は微笑む。
「ヒーローは遅れて登場するもんだろ」
「このッ……キザ野郎……! でもそういうところ好き!」
「鱗滝くん格好いい!」

 中等部から高等部に渡されたバトンが、いよいよ最終走者に渡る。
 走りながら、善逸はバトンを受け取った。しかと握りしめ、すぐにスピードを上げる。
 一人、また一人と追い抜いて、善逸は先頭に躍り出た。
 誰も善逸には追いつけない。
「善逸ー頑張れー!」
「善逸さん!」
 禰豆子の鈴を振るような可愛らしい声を聞きながら、善逸はゴールテープを切った。
 わっと歓声が上がる。
 同級生たちが善逸を取り囲んだ。誰かの手が善逸の肩を掴む。
「へ? あ、ちょっと」
「一位だ!」
「これでうちの勝ち!」
「へわあああ」
 善逸の身体が宙に浮かんだ。ふわりと身体が浮く感覚。すぐに重力に引かれて落下する身体を誰かの手が受け止め、再び宙に放り上げられる。
 胴上げが結構怖いことを善逸は知った。
「待って下ろして! ねえ! 怖いんだけど!」
 ようやく下ろしてもらって、自分の足で立った善逸の前に禰豆子が現れた。
「善逸さん、すごいです! 二人も抜いちゃって!」
「ほんとだよ、善逸、格好よかったぞ!」
 禰豆子と炭治郎に褒められて、善逸はでれでれと顔を崩した。


「お前ら整列しろ!」
 実弥が怒鳴る。
「あれ、冨岡先生は?」
「いいから並べ!」
 まだ夢見心地の善逸とどこかへ行ってしまいそうな伊之助を捕まえ、炭治郎は列に並んだ。
『――一位、青組』
 わあっ、と歓声が上がった。
「やった、優勝だ!」
 みんなが立ち上がる。
「おいお前ら座れ!」
 実弥が再び怒鳴った。
 テントの下で、学園長がにこやかに生徒たちを見守る。
 体裁を整えた冨岡がマイクを握った。
『それでは第八〇回体育祭を終わります』
 歓声と拍手がグラウンドを満たした。



10



「ていうか、あれだけ死闘を繰り広げておきながら打ち身だけって……冨岡も大概だよな」
「なあ、義勇。怪我は本当にいいのか?」
「大したことじゃない」
 冨岡は頭上を見上げた。
 学園の中庭だった。
 怪我をしているからと体育祭の片付けを免除され、冨岡はここで休んでいた。
 体育教官室に戻って忙しく働く同僚と顔を合わせるのも気まずい。かといって、片付けに参加するとカナエに睨まれてしまうのだ。仕方なくたどり着いたのが、中庭だった。
 背中がかなり痛むので、片付けを免除されたのはありがたかった。後で病院に行くようにと保険医にも言われている。カナエには領収書でも見せないと納得しないかもしれない。
 村田といい、カナエといい、どういうわけか冨岡の周囲には世話焼きが集まりやすい。
 傾いた日差しの中、藤の花が咲いている。頭上から垂れ下がる房がそよ風に揺れている。
 照らされた花が赤みを帯びている。
 匂いにむせかえるようだった。
 ――頭が痛い。
「いい加減、説明してくれるよな。義勇」
「何を」
「ごまかしても無駄だ。あれは一体何だ?」
 錆兎が切り込んだ。
 冨岡はそっぽを向いた。
「錆兎に話すつもりはない」
「あのなあ!」
 錆兎が苛立ったように声を荒げた。
 藤の花の匂いが強くなる。目眩がした。
「いつもいつも俺を子ども扱いして!」
「錆兎はまだ子どもだろう」
「俺だってもう中学生なんだぞ」
「そう言っているうちは子どもなんだ」
「話を逸らすな!」
 冨岡は頭上の藤を見上げた。
 ――頭が痛い。
「義勇、どうかしたのか」
 錆兎が怒りを収め、訝しげに声をかけてくる。
「何でも――」
 きりきりと締めつけられるように頭が痛む。こめかみを押さえた。腕をびっしりと覆った鱗が、夕日を浴びて赤く輝いている。
「義勇? 顔色が――」
 頬に焼けつくような痛みが走った。だが、それをひどい頭痛が上塗りする。
「冨岡、おい痣が出てるぞ!」
 村田が慌てて冨岡の肩を抱く。
 よろめいた冨岡は村田の腕を掴んだ。
 ――隠さなければ。でも、どうやって?
「痣って?」
 まだ事態の飲み込めていない錆兎が尋ね、はっと息を呑んだ。
「その顔の! 義勇、どういうことだ!」
 頭が痛い。痛い。ぎりぎりと締められているようだ。
 何も考えられない。
 乱暴に電源を落とされたように、ぶつ、と意識が途切れた。

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