後ろから一撃。痛みよりもまず衝撃が訪れる。傷口を押さえると、月光に照らされた鮮血がこぼれる。首筋にかかる生温かい息づかい。ようやく痛みが脳に到達――立っていられない。背後で足音が走り去る。ぼたぼたと液体の垂れる音と共に地面に倒れ込む。呼吸ができない。明滅する視界に誰かの靴先が入り込む。力を振り絞って顔を上げる。逆光で黒く塗りつぶされた輪郭を捉える。かすかに微笑む気配。ふっと通り過ぎた車のライトが帽子を目深に被ったその人を照らし出す。その瞬間がやけに鮮明に網膜に焼き付く。ああそうか、貴様だったか……呟いて息絶えた飛崎の開いたままの瞼を、白い指がそっと閉じた。

(スパイのお仕事2)



幼い頃、暗闇が怖かった。子どもにはよくあることだろう。父はわたしを抱きしめて、パパの顔だけを見ていなさい、と言った。わたしにはそれができなかった。父の顔を直視するのも怖くて、わたしは嫌がって父の胸に顔を埋めた。何も見なくていいように。父の背後の暗闇に潜む、父とそっくりの姿をした男の冷徹な眼差しから目を逸らし、父の顔からも目を逸らし、わたしは瞳を閉ざした。パパを連れて行かないで、と祈るように必死に唱えた。あの男がいつか優しい父に取って代わってしまうのではないかと恐怖した。父は大丈夫だよ、とわたしを抱く腕の力を強くした。父の腕の感触と体温と、とくとくと脈打つ心臓の音さえも不安を消し去ることはできなかった。わたしが真に恐れていたものを、父は最後まで知らなかっただろう。

(くらやみの中で息をしている/スパイのお仕事3)



「エマ、届いたわよ」と養母にカードを渡される。わたしはそれを胸に抱きしめ、小走りに自分の部屋へ駆け込む。ドアを閉めて、どきどきしながらカードを開く。また去年と違う消印だ。一度として同じ消印はない。
年に一度だけ届くクリスマスカードを、わたしは毎年楽しみにしている。差出人は日本人。わたしの本当のお母さんの知り合いだった人らしい。わたしの養育費を援助してくださっているそうだ。この前読んだ本になぞらえて、わたしはこの人をあしながおじさんと密かに呼んでいる。
一度でいいから、合ってみたいわ。ねえ、あなたはどんな顔をしているのかしら?

白い雪がちらついて、空を見上げた。今年もこの時期がやってきた。外套の袷をかき寄せ、襟を立てる。手近な店に入り、クリスマスカードを見繕う。少女の好みそうな絵柄を手に取る私に、店員は微笑みかける。私も笑みを返す。毎年繰り返している〝義務〟だ。人に預けて以来、一度も会っていない少女のために、私はカードを選ぶ。養育費を送っている少女へ、年に一度だけ、クリスマスカードを。そう決めた。ちりん、というベルの音を後に店を出る。面倒だが〝私〟の偽の経歴には必要なことだ。当たり障りのない言葉を書いて、はたと首を傾げる。
さて、あの子はどんな顔をしていたのだっけ?

(スパイのお仕事4)



冷たい夜空を見上げれば、鋼鉄製の鳥が低い唸り声を上げながら羽ばたき、四対の回転翼が乾いた空気を切り裂く。「今日も頼んだぞ」と呟く。偵察用ドローンは自分の目そのものだ。ビルの屋上に這いつくばってスコープをのぞき込む一方で、鋼鉄の鳥の目を通して地上を見渡す。時々、まるで空を飛んでいるような錯覚にとらわれる。よく馴染んだ手袋のように、自身の延長線上にあるような。曖昧に溶けた肉体の境界線は、今日も判然としない。衛星からの位置情報を受信――照準を修正。今夜の標的は、最期にどんな顔をするだろう。

(スパイのお仕事6)

inserted by FC2 system