聞こえるはずのない、歓声を耳にした気がした。


 ちょうど、夕食の時間帯だった。
 テレビのアナウンサーがとんでもないことを報道した。分断された祖国の東側から西側への行き来を認めるというのだ。何の制限もない、とアナウンサーが告げる。にわかには信じがたいニュースだった。
 それを聞いた人々が、〝国境〟に押し寄せていく。東も西も、検問所は溢れる人々で混乱が生じていた。
 彼は病床からその光景を見ていた。
 歴史がひとつ、終わる。それを肌で感じた。
 時計の針が進むごとに、みるみる人数が膨れ上がっていく。息子夫婦はテレビ画面に釘付けになっている。老いた病身の父に配慮して音量は絞ってあるが、画面だけで十分だった。
 検問所はいまだ閉ざされているが、もはや時間の問題だろう。これだけの人が押し寄せて、何事もなかったようにおさめることなどできない。一度口にされた言葉は、取り消せないのだ。
 その先に待つものに思いを馳せ、彼は目を閉じた。
 ――新しい時代の幕開けだ。
 もはや、それを見届けることはかなわないが。
「……おじいちゃん?」
 少しまどろんでいたのか、まだニュースの内容を理解できない孫娘に手を取られた。
しわくちゃの手だ。この手もかつては若々しく力がみなぎり、銃を握って、あるいは拳で、ペンで、人を殺し、痛めつけてきた。
 半世紀近くたった今でも、夢に見ることがある。
 敗戦、混乱、軍事裁判。未だ若かった自分の信じる全てを否定される空しさ。自分のしたことは無意味どころか悪行だったのだと、戦時中に賛同していた同じ舌がそう言う。あれほど褒め称えていた人々が、手のひらを返すようにまったく正反対の言葉を浴びせてくる。
 逃げ場はなかった。この手に罪を重ね、それと向き合わなければならなかった。
 身を切られるように辛かった。声高に叫ばれる言葉に、無言の視線に、全身を切り刻まれる。多くの同胞たちもそうだった。こんなにも愛する祖国のために尽力してきたというのに。
 しかし、口に出すことは許されなかった。何もかもが間違っていたのだと、口々にそう言われた。あっという間に、信じてきたものをことごとく失った。
 何もわからなくなった。
 占領され、分断された祖国。背後で対立する大国二つに、祖国は引き裂かれた。
 やがて、世界は東西に分かたれた。そして、突如建設された壁。比喩としての鉄のカーテンなどではない、明確に目に見える壁がどんどん背を伸ばしていくのを、どこか遠くにいる心持ちで見ていた。
 壁を越えようとした人々が撃たれるようになっても、他人事のように遠かった。
 自分のことで手一杯だったからだ。
 敗戦国の軍人に、順風満帆な人生が用意されるはずもない。上官はことごとく裁判にかけられ、刑を課された。
 彼自身もそうだった。裁判所の硬い椅子の感触は、忘れたくても忘れられない。こちらの釈明は聞き入れられなかった。自分の尋問した男が、殺意のこもった目で証言する。判事は戦勝国の人間。敵陣のさなかとも言うべき状況で行われた裁判だった。
 厳しい口調で問いかける判事に、あの時、自分は何と答えたのだろう。
 固く握りしめた手のひらに食い込む爪。証人として呼ばれた男の突き刺すような視線。その痛みだけが、鮮明だった。
 それから幾年、紆余曲折経て、家族を持つことができた。職を転々としたのち、ようやく見つけた職を定年まで勤め上げた。過去を置き去りにし、郊外に移り住んで静かな余生を過ごした。
 ようやく腰を下ろしたところで病を得たのは、計算外だったが。
 その人生も、終焉に近い。
 家族には、戦争のことは全く話さなかった。戦時中に自分のしたことは、消えぬ汚点となった。自ら望んで選び取った道だったが、その選択が誤りだったのではないかと、今になって思う。自分だけでなく、周囲も皆、正気ではなかったのではないか、国中がおかしくなって、狂信的なまでに間違った考えを信じ込んでいたのではないか、と。
 何も知らない孫娘が、しわだらけの手をぎゅっと握る。まだこの世の苦しみを知らないやわらかな手のひらの感触が、いとおしかった。
 もう、十分だろう。
 再び目を開けて見た画面では、興奮しきった群衆が検問所を取り囲んでいる。
 ――〝国境〟が、開かれる。
 歓声が、今度ははっきりと聞こえた。
 古い人間は、役割を終えた。これから先は、新しい人間が世界を作っていく。東も西もない、かつてそうあった祖国の姿を取り戻すために。
 だから今日は、分断された祖国を連れていくのだ。ひとりではない。愛すべき祖国のために、最期の仕事を果たす。そう、これは古い世代の人間の仕事だ。
 アーリア人の特徴を強く受け継いだ孫娘の金髪が揺れる。心配そうに眉を寄せ、灰色がかった薄い青の瞳が不安げな眼差しでもって、祖父の顔をのぞき込んでくる。
 ――この子には、新しい世界を。
 孫娘とよく似た色合いの、昔の上官の顔が脳裏に浮かぶ。淡い金髪に透き通るような冷たい碧眼。片目を隠す眼帯が、残ったひとつの眼に、背筋の凍るような凄みを与えていた。
 ついで、霞みがかったようにぼやけた黒髪の男の顔。ついぞ見ることのなかった、〝魔術師〟の幻影。あれが上官の妄執だったのではないかと、今でも思う。
 いつもは冷徹な隻眼が、激情に駆られてかっと蒼く燃え上がる。そのさまに、面食らったものだ。
 上官は、魔術師の存在を最後まで疑わなかった。その執念が実を結んだのか、執拗な調査を続けた列車事故で、〝魔術師〟の気配を感じた。事故で死んだ東洋人の青年の瞼は、誰かの手によって閉じられていた。たったそれだけが、上官の妄執が本物だったと証明していた。
 今はもう、何もかもが遠い。
 かつての上官はどうなっただろう。戦犯として処刑されたのだったか、終戦前にうまく姿をくらませたのか――あれほど強い存在感を放っていたのに、はっきりと思い出せない。あの男のしてきたことを思えば、絞首刑は免れないだろう。うまく逃げ出したとして、とうに生きていられる年齢ではない。
 魔術師も、さすがに寿命を迎えているはずだ。上官と同世代の人間なら、とうに死んでいるはず。いや、あれも敗戦国の人間だ。極東の軍事裁判で処刑されていても驚かない。あの男がそんなにあっけなく死んでしまっていたら、それはそれでがっかりだが。
 記憶は霞み、手の内から砂のように零れ落ちる。この手に残ったのは、わずかな大切なものだけだ。孫娘の手の滑らかな感触、今はそれがすべてだ。
 戦争の記憶を彩る二人――あなたたちも連れていこう。新しい世界では、あなたたちは必要ない。どうか、そういう世界であってほしい。
 こんな世界は、自分で終わりにしたい。
「――おじいちゃんは、少し眠いんだ」
「そうなの?」
「マリア、おじいちゃんの邪魔をしちゃだめよ。こっちに来なさい」
「はあい」
 孫娘は母親に返事をし、祖父に向き直った。
「おやすみ、おじいちゃん」
 舌足らずに言う孫娘は、祖父の頬に唇を寄せた。可愛らしい音を立ててキスをする。同じことを母親にされているのだろうと感じさせる動きが、自然と顔をほころばせる。
 孫娘に微笑み返し、ヨハン・バウアーは静かに目を閉じた。


 瞼の裏、遠く上がる歓声が、新しい祖国の誕生を祝っていた。

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