「急になんだ」
 佐久間は不審そうな目を田崎に向けた。
 授業の後だった。今日も佐久間は授業を見学し、スパイの訓練に励む学生たちを後ろから見ていた。
 本日の授業はこれで終わりだ。結城中佐も教室から去り、教室にはいささか弛緩した空気が流れていた。さすがに〝魔王〟とあだ名される結城中佐がいなくなれば、学生たちも気が緩むのかもしれない。
 しかしながら佐久間から見れば、涼しい顔で訓練をこなす彼らも、相変わらず化け物じみていた。
 今日の訓練は変装術だった。とは言っても、外見だけでなく、性格、経歴までも別人になりすます技術だ。
 D機関に入所した彼ら――スパイ候補の第一期生たちは、一切の素性を秘匿され、別人の氏名と経歴を与えられてここにいる。いわば、昼夜を問わず変装術の訓練をしていることになる。今更、授業内容に戸惑うこともないだろう。
 実際のところ、今日の授業は、普段の生活態度を評価しているようなものだった。端から見ても気づくか気づかない程度の仕草を細かく批評する結城中佐と、それに応えて〝修正〟を繰り返す学生たち。佐久間には何がどう違うのかよくわからない。
 その授業で、一体、何が琴線に触れたのか。
 佐久間の不信などお見通しのはずだが、田崎は涼しげな目を細め、机に頬杖をついた。
「ちょっと話してみたくなっただけですよ」
「どうせ、それも偽の経歴(カバー)なんだろう」
「さてね。佐久間さん、すべてを嘘で固めるのはかえってよくないのですよ。ほんの一片の真実が混ざった嘘というのが、なかなか見抜かれないものです」
「じゃあ本当の身の上話を聞かせてくれるのか?」
 くすくすと笑い声が聞こえた。他の学生たちが笑っている。馬鹿な発言をした佐久間を嘲るように。あるいは、子どもの発言を微笑ましく見守るように。
 一瞬顔をしかめ、佐久間も田崎の目の前の椅子に後ろ向きに座った。
 そんな態度をされるのには慣れている。いちいち反応するほうが相手の思うつぼだ。彼らは凡人であるところの佐久間を、ちょっとからかって遊んでいるだけだ。
「だいたい、俺が何を言おうと勝手にしゃべるんだろう」
「ええ。ですから、佐久間さんは聞いてくれるだけでいいですよ」
「はいはい。で? 話って?」
「佐久間さん、優しいですね。あ、褒めてませんから」
「なんだと?」
「いえいえ、スパイとしては優しさなんて必要ないですから。佐久間さんは、そのままでいてください」
「じゃあ俺も聞いていいだろ」
 波多野が椅子を引いて、側に腰を下ろした。
 他の学生たちは教室から出て行く。大方、街に繰り出すのだろう。D機関は軍組織であることが信じられないほど、規則が緩い。
「別に楽しい話ではないが」
「腕前の見せ所だろ」
 波多野が鼻で笑った。
「楽しくもない話を俺に聞かせるのか」
 佐久間はため息をついた。
「ちょっと練習に付き合っていると思ってください」
「俺なんかで練習する必要があるのか」
 田崎は微笑んだ。
「あいつら相手じゃあ、練習になりませんから」


   *


 俺には兄が一人いました。七歳年上でした。
 七歳も離れていれば、まあ、俺よりもずいぶんと大人に見えましたよ。おもちゃの取り合いをしても、全く勝てません。
 ああ、おもちゃの取り合いなんかしたのかって? ひどいなあ、俺だって子どもの時からこんなんじゃありませんでしたよ。尋常小学校に入る前ですから、おそらく割と普通の子どもだったと思います。
 俺は、何もかも兄には勝てませんでした。年上だから、だけではありません。兄は長男でしたから。
 一方、俺は妾腹でした。ああそう、言い忘れていましたが、俺の実家は華族なんです。
 ――驚きましたか?
 なんだ、もっとびっくりしてくださいよ。つまらないなあ。
 そういうわけで、兄は華族の長男、正妻の生んだ跡取り息子ですから、それはそれは大事に育てられたんです。
 俺は、兄の予備でした。確か、俺と兄の間にいた次男、三男が流行病で次々と死んだんでしたっけ。間に姉も一人いましたが――彼女は運良く病を免れましたが――、婿を取るより実子に跡を継がせたかったのでしょうね。
 ちょうど兄もその病にかかり、跡継ぎがいなくなることを恐れた父が命じたのです。
 母は下女の一人で――お約束のように、旦那様、すなわち父に手を出されて、俺を身ごもった。母はお屋敷を辞し、俺を産んだ。
 しばらくは母と暮らしていましたが、ちょうど流行病で兄たちが次々と死んでいった頃――どこで知ったのか知りませんが――母の元に生まれたのが男子だと知ると、俺は母から引き離されて、父のお屋敷で暮らすことになりました。
 いい子にしているんだよ、と抱きしめられ、身なりのいい、知らない男性に連れられて家を出ました。玄関で振り向いた時、三つ指をついて見送る母が、狭い玄関に涙を落としていました。
 嬉しくはありませんでしたよ。母との暮らしは、豊かではなくてもそれなりに楽しかったですから。
 ……泣いたのか、ですか? そうですね、よく覚えていませんが、たぶん泣かなかったと思いますよ。どうしてでしょうね。
 人でなしだから? 今はそうですけど、当時はまだ普通の子どもでしたよ。おそらく。
 兄は、その後なんとか病から回復し、めでたく俺の居場所はなくなりました。
 佐久間さんがそんな顔をする必要はありませんよ。だって、俺が長男だったら、あるいは俺が母の元に居続けたなら、D機関には入らなかったでしょうし。
 そんな経緯で、俺は父の屋敷で兄と暮らしていたんです。冷たい家でしたね。華族なんてそんなものですけど。温かい家庭なんて無縁です。めんどくさい血縁と利権としがらみと相続をめぐる骨肉の争い――この話は別にいいでしょう。
 波多野、何をそんな神妙な顔を――ああ、貴様は恵まれた家だったのか。違うのか? まあ、聞かないでおこう。
 話を戻すと、当時俺もまだ子どもでしたから、兄と遊ぼうとしたんですよ。でも兄は俺のことを、まあ、有り体に言えばいじめていたんですね。
 信じられない? 俺だって小さい子どもだったんです。力では到底適わなかった。しかも、家中は兄の味方ですからね。俺はしょせん妾腹、兄が元気になったから俺を母の元へ戻す話も出たくらいです。
 でも父は、俺を手放さなかった。
 何を考えていたかは知りません。興味もなかった。
 兄にはずいぶんと泣かされましたね。今となっては懐かしい記憶です。二度とごめんですが。
 そんな日も長くはありませんでした。
 俺が中学に入った頃ですね、背が伸び始めたんです。あんなに大きく見えた兄が、あっという間に近づいて、今でもあの時の感動と言ったら――。
 兄は、良くも悪くも普通でした。特別運動ができるとか、勉強ができるとか、そういったことはなかったんです。可もなく不可もなく、でした。
 俺はといえば、中学の試験で一位を取りました。父にも褒めてもらえるんじゃないかと思ったんです。
 可愛らしい期待に胸を膨らませて報告した俺を出迎えたのは、温度のない瞳でした。父は、冷たく俺を一瞥し、成績を維持しろ、さもなくば家から出て行け、と言いました。
 ひどいですよねえ、こんなに健気に頑張っているのに。
 勉強だけではありませんでした。運動も得意でした。文武両道であれば、父ももう少し俺を見てくれるんじゃないかと思ったんです。子どもでしたね。
 兄が中学生だった頃より、はるかに勉強も運動もできました。
 そこで気づいたんです。兄は、俺よりはるかに愚鈍でした。俺より上なのは年齢くらいで、それだって成長すればたいしたことではなかった。何もかも、俺のほうが優れていた。それこそ、こんな兄が跡を継ぐのはふさわしくないのでは――そう考えたこともないとは言えません。
 けれど、俺は長男にはなれないんです。
 跡取りは兄で、それは生まれた時から決まっていたことでした。兄に万が一のことが会った時、家を保つためだけに、俺は予備としてあの家で暮らしていました。
 それを知った時、すっと心が冷えました。ああ、何をしても無駄なのだと悟りました。
 やがて、兄は結婚しました。義理の姉ができました。きれいな人でしたよ。なんせ華族に嫁いでくるんですから。しっかりした家柄で、顔もよくないと。兄にはちょっともったいなかったかな。
 ふてくされていた俺に、優しくしてくれたのは義姉だけでした。
 俺も思春期で、単純でしたからね。この家のものはすべて、父もしくは兄の所有物で、義姉もそのうちのひとつでしたから。今思い返せば、何かひとつくらい、俺自身のものがほしかったのでしょう。
 予想できた? ふふ、そんな嫌そうな顔をしないでくださいよ。話の佳境はここからです。
 誘いをかけたらあっさり乗ってきましたよ。兄は陰で暴力を振るっていたようでしたから。あっけなかったですね。義弟の誘いに乗るなんて。姦通罪のこと、知らないはずがないのに。
 何ですか? 屑だって? お褒めにあずかり光栄です。
 すぐに事は知れ渡りました。義姉はどうだったか知りませんが、俺には隠しておくつもりもなかった。だってそうでしょう、俺は俺のものがほしかったんですから。よく見ろ、これが俺の物だ、そう宣言したかったんですから、ある意味、願ったり叶ったりです。
 父は、それはもう、激怒しました。愉快でしたよ。生まれて初めて、兄ではなく俺を見ていたんです。理由は何でもよかった、ただ父が、他でもない俺を見ていたのだから。そういう意味でも、あれは成功でしたね。
 父は勘当してやるとわめいた。俺を引き取ったのは間違いだったと。文武に優れているから家に置いてやっていたのに、恩を仇で返すとは何事だ、と。
 別に頼んでなんかいませんけどね。
 醜聞が漏れることを恐れた周囲は、俺をイギリス留学へ行かせることにした。体のいい厄介払いです。もう、兄の予備ですらなくなりました。
 清々しましたよ。俺は、あの家から逃れられたんです。
 義姉ですか? どうなったんでしょうね。不貞を働いた女がどうなるか、なんて佐久間さんだってわかっているでしょう。世間体がありますから、そうひどいことにはなっていないと思いますよ、表向きは。
 そう、華族というのは世間体を何よりも大事にするものですから。
 イギリス留学は、それなりに楽しかったですね。劣った黄色い猿を見下す連中を叩きのめすのは、何よりも愉快でした。
 俺は左利きでしたから、フェンシングで勝つのは容易でしたよ。蔑みを憎しみに変える者、強い嫉妬心、もしくは、表面上、俺を認めて寛大な心を示す者。その裏で、俺をこき下ろし、溜飲を下げる――人はかくも醜い。ごくまれに、本当に俺を対等だと認める奴もいましたが、笑ってしまいますね。こんなにも簡単に掌を返すなんて。
 もちろん、成績は上位でしたよ。あんな奴らに負けるはずがないでしょう。野蛮な国から来た留学生に負けるなんて、どんな気分だったんでしょうね。
 無事に卒業し、俺は帰国しました。さて、ここで困ってしまった。
 実家に帰る訳にもいかない。手切れ金としてそれなりの財産を与えられましたが、一生遊んで暮らしていくにはいささか心許ない――そこで、声をかけられたんです。
 そう、結城中佐です。俺みたいなのを探してたんです。どうしようもない人でなしで、優秀で、強い自負心を持ち、すべてに執着しないような――ぴったりでしょう?
 そして、D機関の入学試験に合格した。佐久間さんも見ていたでしょう。あれはなかなかに手強かったですね。
 俺の昔話は以上です。


   *


 涼しい顔のまま、田崎は語り終えた。
「佐久間さん、どうでした?」
 佐久間は眉間を揉んだ。とんでもなくどろどろした家族関係を聞かされて、嫌な気分だった。誰が険悪な仲の家族の話をされて喜ぶものか。
 迷った末、佐久間は感想とはほど遠い言葉を口にした。
「……どうせ、全部嘘なんだろ」
「初めに言ったでしょう。嘘の中に一片の真実を混ぜるのが、うまいやり方なんです」
「じゃあ、あの話のどの辺が本当なんだ。華族出身であることか? 兄嫁を寝取ったことか? それとも親父殿への恨みか?」
「それを言うわけないじゃないですか。俺たちスパイなんですから」
「――ああ、田崎がオックスフォード卒業って言うのは本当だと思うぜ」
 黙って聞いていた波多野が口を挟んだ。
「この前の英語の授業の時、こいつうっかりオックスフォード訛りで話して、結城中佐にこってり絞られてたからな」
「おい、波多野」
 田崎が初めて表情を動かした。取り繕った秀麗な顔がわずかに乱れ、片眉が跳ね上がる。
「あと、こいつが左利きなのもさ」
 いつだったか、フェンシングの訓練をした時があった。佐久間もよく覚えている。
 あの時、他の七人が寄ってたかって田崎を負かしていた。田崎が左利きであることを利用した戦法で挑んでくることを見越し、徹底的に対策を講じていたのだ。
 澄ました顔が悔しげに歪んでいたのを覚えている。
「田崎は得意のフェンシングで、黄色人種を見下す白人どもを叩きのめすのが趣味みたいだから、それを矯正しようと」
「ひどいですよね。俺を標的にして」
「そんなくだらないことにこだわっている貴様が悪い」
「――つまり、そのあたりは真実なのか?」
「そう見せかけている、とも考えられますけど」
 波多野が椅子から立ち上がり、伸びをした。
「まあ、だとしたらとんでもない被虐趣味ですね」
 にやにやと見下ろす波多野に、田崎は完璧な微笑みで応えた。
 その下にある本心は窺えない。
「じゃ、俺は行くから」
 波多野はひらひらと手を振って、教室を出て行った。
「では、俺もそろそろ」
「待てよ、どこが正解だったか教えてくれてもいいだろ」
「全部本当ですよ、〝田崎〟の経歴としては」
「答えになっていないじゃないか」
「答えがひとつだなんて、言っていませんよ」
「それはどういう――」
「これで、話はおしまいです」
 田崎は指を唇に押し当てた。まるで、小さい子どもに対するような仕草だ。
「秘密にしておいたほうが楽しいでしょう?」
 田崎が立ち上がった。答え合わせをする気はないらしい。
 歩き去る田崎の細長い背中を見送り、佐久間も立ち上がる。学生たちはこれで終わりだが、佐久間にはまだやるべきことがあるのだ。自由な学生たちに少しばかり羨望を抱き、佐久間は荷物を整えた。
 そこではたと気づいた。
 佐久間の背広の胸ポケットに、紙がねじ込まれている。
 いつの間に入れられたのか――十中八九、田崎か波多野がやったのだろうが――、単語がいくつか走り書きされていた。
 筆跡の異なる字が、方向もばらばらに連なっている。まるで、複数人が好き勝手に書いたようだ。
 華族、左利き、フェンシング、英国留学、兄、妾腹。
 ――どれも、先ほどの田崎の身の上話に登場した言葉だ。
 加えて、複数人の筆跡。
 授業の合間に、結城中佐の目を盗んでやったのだろうか。女学生の秘密の手紙のように、こっそりと紙を回していただろう学生たちの様子を思い出そうとし――、佐久間は何も異変を感じられなかった事実を再確認した。
 そもそも、佐久間に気づかれるようでは、スパイ失格だ。
 つまりは、そういうことだった。
 誰が言い出したか知らないが、即興で昔話をするのが今日のお遊びだったらしい。
「くそっ、今日もやられた」
 苛立たしげに、佐久間は紙を握りしめた。
 紙はあっけなく、ぐしゃりと手の内で潰れた。


   *


「佐久間さん、今頃怒っているだろうな」
「今日はやりすぎたか」
「そうかな」
「何か佐久間さんの好きな物を買って帰るか」
「俺が買ってくるよ。潔癖そうな佐久間さんに、ああいう話をして嫌がる顔が見たかったんだ」
「じゃあ頼んだぞ。ちゃんと機嫌を取れよ」
「明日には戻っているさ」
「――ところで、あの話、どこまでが本当だったんだ?」
「貴様も気になるのか」
「別に。聞いただけ。左利きなのは知っている。他は興味がない」
「そうだな――――」


「――――まあ、全部が嘘とは言っていないからな」

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