絶望は美しい姿をしている。その姿形ゆえに人を完膚なきまでに打ちのめし、再び立ち上がるための力を奪うのだ。悪魔のような美しさでもって。
 わたしのそれは、父の姿をしていた。


 きっかけは些細なことだった。
 たぶん、わたしだけではなくて、みんな些細なことがきっかけだったのだろう。
 大学の講義の後で声をかけられた。レポートを評価されて、スカウトされた。詳細を省いて説明すれば、それだけのことだ。
 女性が大学へ進学するのも珍しい時代だった。数少ない女子学生の中からわたしに標的を定めていたのかもしれない。
 時代は冷戦下。戦時中の資料に触れることも多かった。
 その中で、どうしてか、気になった資料があったのだ。戦時中の敵国で、今は友好国となった日本の、幻の諜報機関。かつて祖国のスパイをも出し抜いた精鋭揃いの秘密機関は、終戦と共に消え去った――らしい。
 わたしのボスなんかは、まだちょっと疑っているみたいだけれど。
「お父上は何か知らないのかい? 日本出身なんだろう?」
 ボスは当初、わたしにそう尋ねた。わたしは面食らって答えられなかった。だって、そんな話、父からは一度も聞いたことがなかったから。
 父――わたしの育ての親で、血のつながりはない。わたしの実の父は戦死し、母もまもなく体を悪くして亡くなった。母の知り合いの日本人男性がわたしを引き取り、それからずっと一緒に暮らしている。
 たしかに、わたしの養父は変人だ。東洋人離れした顔立ちで、完璧な英語を話し、一見しただけでは日本人とはわからない。
 養父にはなぜか手紙を暗号で書く習慣があり(今でも父とこの遊びは続けている)、父の知り合いは本名ではなくあだ名で呼び合い、時々変装して訪ねてくる。
 昔、スパイに憧れていたんだ。養父はそう言ったことがある。大学の友人たちとの遊びの習慣が抜けなくてね、と笑いながら話していた。みんなには内緒だよ、とささやかれて、子どもながら二人だけの秘密にどきどきしたものだ。
 そう、ボスはわたしの養父が日本人であることを知っていた。思えば、戦時中から日本人である養父を監視(というほどでもないかもしれないけれど)していて、わたしを知ったのかもしれない。
 わたしが何も知らない様子なのに、ボスはさほど落胆しなかった。いわく、娘に話すようではスパイなど務まらないから――だそうだ。
 話に聞く彼らは、ずいぶんと人間離れしていた。
 ボスが――当時現役だったボスが良いように出し抜かれた経験を悔しげに話す度、好奇心が大きくなった。当然だろう、養父が日本人で、しかもスパイごっこが好きときている。興味を持たないはずがない。
 わたしは仕事の合間に資料室にこもり、その幻の諜報機関について調べた。
 大日本帝国陸軍内に設置された、スパイ養成機関。当時卑怯だとされ、嫌われていたスパイ行為を、同じく嫌われていた余所者――すなわち、士官学校出身者以外を集めて教育していたという。
 たどれる経歴はそれくらいだった。設立者も、集められた学生たちがどのような素性だったかも巧妙に隠蔽され、よく分からない。名前だけが知られ、実情はうかがい知れない、そういう組織だった。
 めぼしい情報は見つからなかったけれど、彼らの鮮やかな手腕を、跡形もなく歴史の狭間に消え失せたのを見るのは、ボスには悪いけれど楽しかった。
 ある日、たまたまだったと思う――戦死した実の父に関する資料が見つかった。
 その時の衝撃は忘れられない。わたしの実の父は、祖国に殺されたのだ。暗号を解くために、囮として。
 母は知っていただろうか。知らないでいたことを願った。
 それから、むさぼるように資料を読んだ。真実にたどり着くまで、さほど時間はかからなかった。
 ――母は、病死などではなかった。
 わたしの乗った船で起きた殺人事件。ほとんど記憶にないけれど、フラテ――当時飼っていた犬とわたしと母で船に乗ったことだけは、おぼろげに覚えている。
 母は、長い船旅で体調を崩して亡くなったのではなかった。
 すべてが書かれているわけではなかったが、推測するのは難しくなかった。
 母は敵国・ドイツの手先になり、父を死に追いやった男に復讐した。残された私とフラテを、養父が引き取った。
 では、母はどこで養父と知り合ったのか。母に日本人の知り合いがいるなんて、おかしくはないだろうか。どうして今まで何の疑問も持たずにいたのだろう。
 ひとつ気になりだすと、次々と疑いが湧いてきた。
 わたしは、手に入れられるだけの資料をありったけかき集めた。寝食を忘れるほど、資料を読み込む。
 奇妙に冷めた思考が尖り、あらゆる情報から推測を組み立てる。
 ――スパイは、現地に溶け込むために結婚し、子どもを成すことさえある。
 資料には、そうやって逮捕されたスパイの末路も記録されていた。
 心臓が早鐘を打っている。考えたくない。これ以上、知りたくない。そう思うのとは裏腹に、冴え渡った思考はやがて結論を導いた。


 そうしてわたしは、自らの絶望の姿を知った。

inserted by FC2 system