嵐がやってくる。
 すっかり暗くなった空に、星は見えない。分厚い雲が空一面を覆い、出歩く人影もない町は死んだように静まりかえっている。
 ごうごうと唸る風が窓枠をがたつかせる。じきに雨が降り出すだろう。
 太平洋に浮かぶちっぽけな島は、頻繁に嵐に襲われる。今日は昼間から強い風が吹き始め、午後の授業はなくなった。
 嫌な勉強から逃れた子どもたちは遊びたがったが、教師が家に帰らせる。
 学校と同様に、大人たちも仕事を早く切り上げて帰宅する。それがこの島のルールだ。自然には逆らわない。
 学校が早く終わってはしゃぐ子どもを家に入れる。
 危ないから外に出てはいけないと言い聞かせると、子どもは不満げに頬を膨らませた。林檎のような丸く赤い頬をつついて、頼むから良い子にしてくれ、と懇願すれば、しょうがないわね、とませた態度でようやく納得する。
 二人で夕食を摂り、学校の話を聞き、そして子どもをベッドに入れた。部屋の明かりを消し、お休みなさいと頬にキスをする。
 もぞもぞとしばらくは寝返りを打っていたようだが、しばらくすれば眠りに落ちていた。
 確認するために子どもの部屋に入り、完全に寝入ったことを確かめる。
 ――まだ続ける気なのか。
 耳元でささやかれるような感覚が生じた。
 子どもを寝かしつけた後は、いつもこうだ。
 子どもの寝息を聞いていると、不意に、暗闇が頭をもたげる。難なく身にまとっているはずの仮面が剥がれそうになる。
 ――貴様は誰だ。
 問いかける声は、自分にしか聞こえない。
 ――私は誰だ。
 眠る子どもの顔を見下ろす。安心しきって眠る子どものあどけない顔は、親ならば幸せを感じるものだろう。であれば、わずかでも安堵を覚える自分は。
 ――私はこの子の父親だ。
 父親のはずだ。間違いなく、周囲の人間にはそう認識されている。子どもからも、父と呼ばれている。
 ――わかっているだろう。
 ――ああ、わかっているとも。
 確認するまでもない。
 氏名は偽物。身分証は偽造。過去も偽物。存在しない誰かの皮膚を被り、誰かを演じ続ける。今は、この子の父親を演じている。ならば、私は、僕は――
 言い聞かせるほどに、はめられた枷が重みを増す。子どもを拾った時に覚悟したはずのその枷が、唐突に締め付けをきつくする。
 小さな子どもの手が首に巻き付き、弱い力で首を絞めている。そう錯覚する。
 いっそ、耐えられないほどであればよかったのだ。そうであれば、潔く下りることができた。そうしないのは、己の本性がどうしようもないからだ。この子の父親であり続ける限り、己の真の欲求を満たせないからだ。
 ――そしてそれを、捨て去ることができないからだ。
 ぽつ、と窓ガラスを叩く音がした。
 はっとして顔を上げ、カーテンを細く開けると、窓ガラスに水滴がついていた。見る間に水滴は数を増し、窓ガラスを伝って落ちる。
 あっという間に激しい雨音へと変わり、慌ててカーテンを閉じた。
 布に遮られて雨音が遠ざかる。
 ベッドの上の子どもが目を覚ました様子はない。深い眠りに入った子どもを見守る。
 嵐はすぐに通り過ぎるだろう。風が強ければ強いほど、去るのも早い。
 翌朝になれば、いつも通りだ。
 暗闇に息づく化け物は、朝日を迎えることはない。
 ――さあ早く、あの子どもを――
 目を閉じると、瞼の裏側に棲む闇が未練がましくささやいた。
 頭を振って、いつにも増してしつこくつきまとう声を振り払う。今夜だけだ。今夜だけ、嵐の夜だから。
 開いた瞳の先で、自身と同じ姿をした化け物がにやにやと笑っていた。

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