オオカミみたいな犬がいると言ったのは恭介だった。たまたま出かけた先で、近くの公園を歩くその犬を見たらしい。本物の犬というだけでも今どきめずらしいのに、オオカミときた。
「めちゃくちゃでかい犬だった」
 こーんなに、と恭介は腕をいっぱいに広げて興奮しながら言った。
 ぼくは読んでいた端末をオフにして、疑いの目で恭介を見た。
「それほんと?」
「おまえに嘘ついてどーすんだよ」
「そもそもペットって高いって聞いたよ。そんなめずらしそうな種類の犬なんて、いくらするのさ」
「おじさんが言ってたけど、あの公園は犬を散歩させる人が何人かいるって」
 生きている動物はとっても高いから、お金持ちしか飼えないってお母さんが言ってた。おばあちゃんは「昔はそんなにめずらしくなかったのに」とため息をついている。おばあちゃんは時々、昔の話をしてくれるけど、ぼくにはちょっと信じられないくらいに今とちがう。
 恭介によると、そのオオカミみたいな犬を連れているのは若い男の人らしい。ますます珍しい。お金持ちといえばおじいちゃんかおばあちゃんか、少なくともおじさんおばさんじゃない?
「だから見に行くんだよ。もしかしたらさわらせてくれるかもしれないだろ」
 恭介は楽しみでたまらない顔でそう言った。ぼくと行くのは恭介の中ではすでに決まったことらしい。もちろんぼくも気になっている。だって本物の犬なんか見たことない。さわってみたい気持ちはあるけど、オオカミみたいって言われると同時にちょっとこわい。かまれたらどうしよう。考えすぎかな。
 その男の人はいつも午前中に来るらしい。だから今日、ぼくは恭介といっしょに公園へ来た。お母さんには恭介と出かけるとだけ言って、バスに乗って二人でやって来た。
 公園は海の近くだった。海には入ったことがない。昔は海で泳いでいたっておばあちゃんから聞いたけど、信じられない。今は絶対に入っちゃ行けませんってお母さんも先生も言う。
「へえ、ここがその公園?」
「おじさん、この近くに住んでるんだけど、このへんはわりと金持ちが多いっぽいな」
「じゃあおじさんも金持ちなの?」
 ベンチに二人で座って、通りすぎる人たちをながめる。夏も終わって、秋に入っている。公園の木の葉っぱも黄色とか赤とかに変わっている。
「うーん、よくわかんない。大変だけどえらい仕事してるって聞いた。コーセーショーっていうところで働いてるって」
「えっ、それすごくえらい人なんじゃない?」
「知らね。母ちゃんは早く結婚すればいいのにって言ってた」
 興味なさげに恭介が言う。ぼくも正直、犬の方が気になって仕方ない。都内だとだっこできるくらいの小さい犬はたまに見かける。多いのがくるくるの巻き毛で垂れ耳の犬。こい茶色からうすい色、白いのまでいろいろいる。それから真っ白な長い毛で毛玉みたいになっている犬。でも、両腕を広げたくらいの大きさの犬なんか見たことない。
「あっ、来た。あの人」
「え、思ったより大きい……」
「な、言っただろ?」
 なぜか恭介が得意げな顔をした。
 恭介の指さす方向に、大きな犬を連れた背の高い男の人がいた。恭介の言うとおり、かなり大きな犬だった。立ち上がったらぼくたちの肩に届きそうだ。ぴんと立った耳、くまどりみたいな模様のある顔はたしかにオオカミに似ている。白と茶色の毛は短いけどたっぷりと生えて、特にしっぽがふさふさだ。機嫌よさそうにゆらゆらと揺らしながら、飼い主の男の人の隣を歩いている。
 犬が近づいてきてわかった。左右で目の色がちがう。あれは大丈夫なのかな。色がちがうと病気らしいって聞いたことがあるけど。
 興味しんしんで二人で見ていたのがバレたのか、男の人がぼくたちを見た。若い男の人だ。お父さんよりずっと背が高くて、眼鏡をかけている。すごく仕事ができそうな感じ。ちょっと冷たそう。でも、金持ちってイメージじゃない。犬の方もぼくたちに顔を向けた。鼻を鳴らしてぼくたちを見上げる。こわそうな顔だけど、人なつっこいみたい。
「犬を見るのは初めてかい」
 男の人がおだやかに言った。ぼくたちみたいな子どもを何度も見てきたみたいに、なれた言い方だった。
 ぼくはうなずくのでせいいっぱいだった。生きている犬をこんなに近くで見たことはない。生きているっていうだけで、もう胸がどきどきする。
「あの」と恭介が男の人を見上げた。「さわってもいいですか?」
「構わないよ。ゆっくり手を近づけてごらん」
 恭介がいきなりそう言っても、男の人はおどろかなかった。きっとぼくたちみたいに犬をめずらしがる子どもが多いんだろう。
 恭介が男の人に言われるがまま、おそるおそる手をにぎり、犬の鼻に近づけた。
 犬は恭介の手の匂いをかいで、それから鼻を手に押しつけた。
「わっ冷たっ!」恭介の驚く声。
 男の人がちょっと笑った。冷たい顔立ちだけど、笑うと目が優しくなる。
 ぼくも恭介にならって手を犬に近づけた。犬に匂いをかがれながら男の人を見上げる。
「名前は何ですか?」
「ダイムだよ」
「ダイム?」
「昔あったお金の名前だ」
「お金? 銭じゃないんですか?」
「君、よく知ってるね。ダイムは海外のお金なんだ」
「海外……」
 それもよく知らない言葉だ。おばあちゃんの口からしか聞いたことがない。もっとも、おばあちゃんも日本を出たことがあるわけじゃない。おばあちゃんのお父さん――もしかしたらおじいちゃんかな?――が海外で仕事をしていたって聞いたことがある。知らないことがたくさんあるな。
「撫でてもいいよ。ダイムは撫でられるのが好きだから」
「いいんですか?」
 と言いながら、ぼくも恭介も犬――ダイムの頭をそうっとなでた。ダイムは大人しくなでられるままだ。
「セラピー犬の認証も取っているから、恐がらなくても平気だよ」
 かすかに笑ったような声で、男の人がダイムの背中を軽くなでた。
「ぼく、犬をさわったの初めてです。こんなに大きい犬、めずらしいですね」
「そうだな。俺もダイム以外は見たことがないかもしれない」
 長い前髪が風に揺れて、軽くうつむいた男の人の顔を一瞬だけ隠した。
 ぼくと恭介はすっかりダイムに夢中だった。そろそろとなでていた手はもっと思いきって、頭や背中をなでてみる。だって、本物の犬! 毛並みはやわらかくてあたたかくて、鼻はしめって冷たい。ダイムはぜんぜんいやがらない。手のひらをなめられて、ぼくもびっくりして声を上げてしまった。ざらついてあたたかくてくすぐったい。
「あの、またなでに来てもいいですか」
 ずうずうしいかもしれないと思いながら、ぼくはたずねた。
「もちろん。また会えたら。ダイムも君たちを気に入ったみたいだ」
 やわらかい声で男の人が言った。
 ぼくと恭介は顔を見合わせて、うれしくて少し飛び上がった。
「ただ、ちょっと仕事が忙しいから、毎週ここにいるわけじゃないよ」
「やっぱり忙しいんですか?」恭介が言った。
「やっぱり?」
「おじさんが――おれのおじさん、コーセーショーってところではたらいてて、すごく忙しいって。このへんに住んでる人はだいたい忙しいって言ってました」
「おや、君のおじさんも厚生省なのか? 奇遇だな。俺も厚生省で働いているんだ」
「へえ、そうなんですか」
「お仕事、がんばってください」
「ああ、君たちの安全のためにも」
 いまいちよくわからないことを言って、男の人はダイムを連れてまた歩いていった。細長い背中を二人で見送り、なんとなくまだ帰りたくなくて、またベンチにすわった。
 ぼくは自分の手を見下ろした。ダイムの毛や鼻や舌の感じがまだ残っている。意味もなく手をにぎって、開いて、またにぎる。
「また来ような」
 まだ興奮した顔で言う恭介に、ぼくもうなずいた。



 だけど、その〝次〟はなかなかやって来なかった。ぼくたちが公園に行っても、あの男の人は来なかった。やっぱり忙しいんだろうな。大人って大変だ。
 ぼくはと言えば、帰ってからもダイムのことをときどき思い出しては宙をなでてみたりする。ヴァーチャルじゃない犬っていいな。うちでも飼いたい。そう思って飼う方法を調べてみたけど、けっこう大変そうだった。毎日一時間も散歩させないといけないらしい。大きな犬は散歩させる距離もけっこう長くて、あの人はすごいなあと思った。
 そんな感じで、ダイムには会えないまましばらく経った。季節は冬に向かっていて、もう手袋をしないと寒くて出かけられない。
 とつぜん何日か学校は休みになって、よくわからないうちにそれも終わって、ぼくたちはまた寒い中、学校に行くようになった。先生が一人いなくなって、クラスの中でずっと休んでいる子がいたけど、学校はいつもどおりだった。なんとなく、あの休みだった日のことは口にしてはいけない雰囲気があった。
「おじさんにさ、あのでっかい犬の話をしたんだ」
 そんなときに、恭介が暗い顔でそう言った。
「もう、あの犬のことは忘れろって」
「どういう意味?」
「さあ。聞いてもよくわかんなかった。教えてくれないんだ」
「そうなんだ……」
 ぼくはなんとなく、学校が休みだった時のことを思い返した。お母さんは絶対に家から出るなと言った。どうしてかテレビも禁止された。ぼくは読みかけの本なんかを読んでいた。お父さんは忙しそうだった。何日も家に帰ってこなかった。
「仕事が忙しいのかな」
「それで『忘れろ』なんて言うか? おかしいだろ」
「それはそうだけど……」
 と言いながら、ぼくたちは再びあの公園に出かけた。だって会いたいんだから。理由をちゃんと言わない大人が悪い。べつに悪いことをしているわけじゃないし。
 公園を歩きながら、すれちがう人の連れている犬を一匹ずつじっくりながめる。
「ダイム、いないね……」
「うん……」
 ぼくは寒さに身震いした。もう少し着込んでくればよかったかも。
「あ! ダイム!」
 そのとき、恭介が叫んだ。
「えっ、どこ?」
 ぼくは公園じゅうに目を走らせた。
 ――いた。茶色の毛並みにオオカミみたいな顔の大きな犬。
 だけど、連れているのはあの男の人じゃない。女の人だ。ダイムに引っ張られるように歩いている。なんだかなれてなさそうだ。短い髪、歳はあの人よりいくらか年下――だと思う。
「あの人……ちがうよね」
「どういうこと?」
 ぼくたちがとまどっている間に、女の人がぼくたちに気がついた。ダイムがぼくたちによってくる。覚えてくれていたみたい。
「君たち、ダイムのお友達?」
「あ、ええと、友達っていうか」
「前に会ったことあります。一回だけだけど」
「そうなの?」
 ダイムが恭介とぼくに鼻を近づけた。ぼくたちは前に男の人に言われたように、ゆっくりと手を出した。
 十分にぼくたちの匂いをかいだダイムがその場にすわりこんだ。いくらでもなでていいよ、と言っているみたいに。
 ぼくは女の人を見上げた。
「なでても……いいですか」
「いいよ。ダイムが許してくれるなら」
 ダイムは地面に伏せた。許してくれるみたいだった。
 ぼくたちが十分に毛並みを味わうと、女の人は笑った。
「君たち、ダイムと仲良しなのね」
「そう……でしょうか」
「よければまた来てやってね。ダイムも寂しいだろうし」
「あの、男の人って……前、ダイムと一緒にいた……」
 言ってから、ぼくは後悔した。男の人の名前を知らなかった。聞いておけばよかったな。
「ああ……あの人は、ちょっとね……今は私が代わりに散歩させてるの。そのうち会えるわ」
「もしかして病気なんですか?」
 女の人はちょっとびっくりしたような顔をした。
「どうして?」
「仕事、忙しいって言ってたから」
「――そうね、病気、みたいなものかしら。少し休まないといけないの」
「あの、じゃあお礼、伝えてもらってもいいですか。ダイムをさわらせてくれてありがとうって」
「ええ。もちろん」
 女の人は笑顔でうなずいた。
「じゃあね、ダイム」
「バイバイ」
 ぼくたちはダイムと女の人に手を振った。
「次はあの男の人の名前を聞かないとな」
「そうだね。早く病気、治るといいね」
 ぼくはまた、手をにぎって開いた。きっとこのあたたかさは忘れないと思う。

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