ペットなんて贅沢品だ。もちろん、そう言う人だっている。だけど、わたしはこの仕事に誇りを持っている。シビュラシステムに適性ありと診断されたからだけじゃない。わたしが心の底から、この仕事をしていてよかったと思うからだ。
 ストレスケアならサプリでもヴァーチャルでもいくらでも手軽なのがある。毎日餌をやって散歩に連れて行って、排泄物を処理して、ブラッシングしてやる。一度飼ったら最後まで面倒を見なければいけない。ただ面倒を見ればいいってものでもない。きちんと愛情を持って接してやらないといけない。病気にだってなる。そもそも高価なのに、病院代だって馬鹿にならない。子ども一人養うより高くつくことだってある。だから金持ちの道楽だ。――全部、否定できない本当のこと。
 だけど、それ以上に、動物はわたしたちに愛を返してくれる。
 子どもの時、わたしもペットを飼っていた。捨てられた犬だったらしく、品種がいろいろ混ざっていた。図鑑を見ても、どの犬とも似ていない。でも、つやつやの短い黒い毛をわたしは気に入っていた。学校で嫌なことがあっても、わたしのことなんかお構いなしにあの子は散歩をせがみ、仕方なくリードを持って出かけると、いつのまにか嫌なことは忘れた。
 お母さんが犬好きで、遺棄されたペットに携わる仕事をしていた。うちの犬もそうやって引き取ってきたらしい。お父さんはそこまでじゃなかったけど、お母さんのそういうところが好きみたいだった。だからわたしも犬が好きだ。そういう存在を大事に思っているからこそ、この仕事に適性が出たのかもしれない。
 わたしは彼らが健やかに、飼い主の元で一生を全うできるように手伝うペットシッター――この仕事を誇りに思っている。

 いつも利用しているお客さんからメッセージが来たから、外出する準備をする。
「宜野座さん、今日もか……忙しいんだろうな」
 わたしのお客さん、宜野座さん。二〇代、独身男性。かなり長身で珍しく眼鏡をかけている。厚生省に勤めているらしいけど、詳しいことは知らない。飼っているのはシベリアン・ハスキー。名前はダイム。けっこうなお歳の大型犬だ。ペットを預かったり散歩を代行したりする頻度もそれなりに高い。相当忙しいのだろう。それ以上は詮索しないようにしている。それがこの仕事の暗黙の了解。わたしたちはペットを一時的に預かるだけ。
 自宅に訪問し、餌やりと散歩をするのが基本。それ以上は立ち入らない。個人情報を知っているからこその線引きだ。
 とはいえ、お客さんのペットに会えるのは楽しみでもある。
「ダイムくん、まだまだ元気そうでよかった」
 宜野座さんのマンションは千代田区にある。このへんは中央省庁に勤めている人が多い。宜野座さんの家も例に漏れず、セキュリティが厳格だった。普通の住宅地と比べてスキャナの数が段違いだ。わたしの顔は登録されているから入れるけど、不審な動きをした途端に通報されるだろう。
 エレベーターから降りて廊下を歩く。宜野座さんの部屋の前に立つと、ちょうどドアが開いた。黒スーツ姿の男性が玄関に立っている。その奥に犬が見える。
「あ、宜野座さん。おはようございます」
 いつもは無人の部屋に入ってダイムの世話をすることが多いから、直接顔を合わせるのは久しぶりだった。
「荒山さん。おはようございます。すみません、ばたばたしてて」
 宜野座さんは少し疲れたような笑みを見せた。もともと肌の白い人だけど、いつにも増して白い。隈も見える。あれ、この人、こんなに顔色が悪かったっけ?
「いえいえ。毎度ご利用ありがとうございます。これから出勤ですか?」
「そうです。夜遅くまで戻ってこれないと思うので、ダイムの散歩をお願いします」
「ダイムくんのご飯はまだですか?」
「それはさっき済ませました」
「そうですか、じゃああとは任せていってらっしゃい」
 宜野座さんはびっくりしたように目を瞬かせた。
「あ、すみません。そんなこと言われたのが久しぶりで」
「ああ、一人暮らしですもんね。ダイムくんはさすがに喋れませんし」
 わん! と返事をするようにダイムが軽く吠えた。
「こら、ダイム、家の中では静かにするんだぞ」
 ダイムは鼻を鳴らして、宜野座さんの足元に身体をすりよせた。宜野座さんが慣れた手つきでダイムを撫でてやる。ダイムは座って、宜野座さんのなでなでを享受している。
「それじゃあ、よろしくお願いします」
 名残惜しそうにダイムを振り返り、宜野座さんは出勤していった。
 ここからがわたしの仕事。
「じゃ、ダイム、散歩にいこっか」
 ダイムはすくっと立ち上がった。部屋の奥に歩いていって、リードを加えて戻ってくる。賢い犬だ。「散歩」という言葉は覚えているのだろう。うちの犬と同じだ。わたしはちょっと笑った。

 公園に行くと、ダイムは常に子どもたちのアイドルだ。犬を飼っている人はいくらかいるけど、シベリアン・ハスキーともなるとひどく珍しい。
 今日は平日だけど、小さな子どもを連れたお母さんはちらほら見かける。歩き始めたばかりの小さな子どもが、物珍しそうにじっとダイムを見つめる。
「犬を見るのは初めてかな?」
 お母さんの様子を窺いながら、わたしは小さな女の子に近づいた。二、三歳といったところか。まだ完全に言葉のわかる歳ではない。お母さんが軽く頷いたので、わたしはしゃがみこんだ。ダイムは心得た様子で女の子の前に座った。
「小さな犬なら見たことありますけど、こんなに大きな犬は初めてですね」
「じゃあさわってみますか?」
 ダイムはセラピー犬でもあるから、子どもと好きにふれあいをさせてもいいと宜野座さんから許可をもらっている。ダイムもダイムで、かなりの子ども好きだ。たまにドッグランで子どもたちと遊んでいるらしい。
 子どもの手を握り、そっとダイムに近づける。ダイムが匂いを嗅いだ。それから、小さな手を持ってダイムの背中に触れさせる。子どもは無言のまま、ダイムを見つめ、わたしを見上げた。黒目がちの目、ふっくらした赤い頬が愛らしい。子どもは母親を振り返り、つたない発音で言う。
「わんわん」
「そう、わんわんよ」
 子どもが何度かぎこちなく手を往復させると、ダイムがのそりと立ち上がった。散歩の続きをしたいらしい。
 ありがとうございますと礼を言うお母さんに軽く会釈して、わたしはダイムと歩き出した。
 宜野座さんから聞いているいつものコースを回り、帰宅する。わたしとの散歩も慣れたものだ。もう何年もお世話させてもらっている。自分で世話しきれないのは無責任に映るかもしれないけど、人には事情があるものだ。年齢から見て、ダイムは宜野座さんが子どもの頃から飼っているのだろう。昔と環境が変わってしまうのは仕方のないことだ。
 ダイムは疲れたのか、わたしに軽く足を拭かれた後は寝床に向かった。彼も若くはない。そういえばもう一匹いた犬は、何年も前にいなくなってしまった。
 それにしても――とわたしは勝手ながら少し心配してしまった。この三年くらいで、宜野座さんは変わった。前はあんなに前髪が長くなかったし、もうちょっと顔色もよかった気がする。今朝は特に顔色が悪かった。夜も遅いという。
「ねえ、ダイム。君のご主人さまはそんなに忙しいの?」
 ダイムはわふ、と吠えるか迷うような声で応えた。
「まあ、わたしが心配したところでどうしようもないか。君の健康に気を遣ってやるくらいしかできないしね。長生きするんだよ、ダイム」
 鼻を鳴らして、ダイムは目を閉じた。
 

 それから何ヶ月か、いつものようにダイムの散歩代行を頼まれた。だから、宜野座さんの同僚という人から連絡が来た時には驚いた。しかも、ダイムをしばらく預かってほしいと言うのだ。
「散歩の代行じゃなくて、預かるってことですか?」
『ええ。ちょっと宜野座さん、入院することになって……』
「ええっ?」
 わたしは思わず声を上げてしまい、慌てて携帯端末の通話口を押さえた。
『すみません、詳しくは話せないんですが、その間のダイムの世話をお願いしたくて』
「それはもちろん構いませんが……どれくらいの長さになりますか?」
『そうですね――とりあえず一ヶ月、お願いできますか。その後のことはまた連絡します』
 慌ただしく預かる日時を決めて、通話は切れた。
 わたしは呆然と、画面に表示された番号を眺めた。


「常守さんですか」
 宜野座さんのマンションに行くと、短い髪の女性が立っていた。宜野座さんよりだいぶ年下のようだ。新人のようだけど、表情に初々しさがないのが不思議だ。
「はい。ペットシッターの荒山さんですね」
「はい。初めまして」
「こちらこそ、急に頼んでしまってすみません」
「いえ、いいんですよ。急な帰省とか入院とか、そういうのでお預かりすることはよくありますから。むしろ、きちんと連絡をいただけるだけありがたいです。飼い主の方が倒れてペットが家に置き去りに……なんてこともありますから」
 二人で並んでエレベーターに乗り、宜野座さんの部屋に向かう。常守さんが鍵を取り出した。
「宜野座さんとは同僚とお聞きしましたが……」
「仕事上は同格ですけど、先輩ですね」
 部屋に入って、寝室に向かう。センサーが人の気配を感知し、柵が開いた。奥から歩いてきたダイムが常守さんに近づいて匂いを嗅ぎ始めた。
「ううん、まだ慣れてくれないかな……」
「しばらく様子を見てくださったんですか?」
「何度か散歩させたくらいです。餌を準備したりトイレを片付けたりはドローンがやってくれても、散歩は私じゃきつくて。ダイムって力が強いですよね。これでおじいちゃんって聞いてびっくりしちゃいました」
 と頬を掻いて常守さんは笑った。
「宜野座さん、入院するって話でしたけど、やっぱり忙しくて身体壊しちゃったんですか?」
 ちょっと立ち入ったことを聞いてしまったかなと思いながら、わたしは尋ねた。もう何年もの付き合いなのだ。心配くらいする。特に最近は疲れている様子だったし。
「そうですね。そんな感じです」
 と軽く言う常守さんもタフな印象はないけど、少なくとも表情は明るそうだ。そう考えると、最近の宜野座さんの表情はたしかに硬かった。
「じゃあ、しっかりダイムはお預かりします」
「はい。よろしくお願いします」
 ダイムが寝床に使っている毛布と、お気に入りのおもちゃをいくつか持って、わたしたちは宜野座さんの家を出た。
「早く会えるといいね、ダイム」
 わたしにリードを握られたダイムは、色違いの瞳で静かにマンションを見上げた。
「大丈夫だよ、きっとすぐよくなるから。心配しないでうちでゆっくりしていってね」
「ええ、きっとすぐ……」
 常守さんは寂しそうにダイムの頭を撫でた。
 くうん、と呼応するように悲しげな声で鳴いたダイムが常守さんの手を舐めた。犬は人の言葉を話せないけど、人の感情は理解できる。だからきっと、常守さんの感情も伝わっている。
 常守さんは隠しきれない悲しみをにじませて、もう一度繰り返した。
「きっとすぐだから、心配しないで、ダイム」
 冷たい冬の風がわたしたちの間を吹き抜けていく。
 春はまだ遠い。

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