言葉は弾丸だ。一度放たれたら戻らない。誰かの胸を穿ち、血を流させ、肉を抉り、そこでようやく止まる。貫通しなかっただけましなのかもしれない。
 放った側に残るのは後悔とか罪悪感とか良心の呵責とか、そういう名前をつけられる暗澹たるもの――今の宜野座が抱えているもの。
 発端は特筆すべきことではなかった。エリアストレス警報で出動した宜野座が事件への対処をめぐって狡噛と軽く口論した、それだけだ。たまたま三係が追っていた事件の容疑者と遭遇したのはちょっとした不運、あるいは幸運だった。
 人が変わった狡噛と衝突するのも慣れてきた。――否。慣れざるをえなかったと言うべきだろう。
 佐々山が殺されてから、ボールが坂を転げ落ちるように事態は急速に悪化した。そして宜野座が危惧していた通り、狡噛は潜在犯に身を落とした。父と同じように。
「狡噛、先行しすぎだ」
 頬に跳ねた血や肉片を拭いながら、狡噛は宜野座を振り返った。
 まるで獰猛な獣のような鋭い目つきに宜野座はたじろいだ。手に握った銃は展開していた装甲を折りたたんでいつもの姿に戻っているのに、狡噛はまだ戻らない。あえて身を危険にさらすにように、容疑者へ向かっていった時と同じ目をしている。どこまでも獲物を追い詰めて喉笛に噛みつこうとする、猟犬と呼ぶには獰猛な目だ。鋭利な刃物に似たそれは、握る者をも傷つける。狡噛はあの日から、ずっとこの目をしている。
 地面には違法薬物を使用していた容疑者だったものが薄く広がっている。赤い水たまりの中には、スープに浮かぶ具材よろしく内臓が点々と転がっている。
 廃棄区画は日中でも薄暗い。無秩序に並んだ建物が日差しを遮るからだ。だから道路はいつも湿っていて、カビだとか埃だとかがそこらじゅうにこびりついている。――この場所は嫌いだ。
 狡噛が地面にかがみこんだ。地面に散らばる違法薬物のカプセルをひとつ拾う。つい先ほど処刑された人間の血肉に塗れたそれをわずかな日光にかざす。
「ギノ。俺はもう監視官じゃない。手を汚すのが猟犬の勤めだ」
「そういう話をしているんじゃ――」
 以前はこんな風に言い争うことはなかった。もっと建設的に話し合いができたはずだ。今は犯罪係数という名の線が二人を分かち、同じ目線に立たせない。
「撃てと言われたら撃つ、それだけだ。何も変わらない」
「違う!」
 何が違うと言うのだろう。それが職務だ。監視官も執行官も同じようにこの銃を握り、撃つ。シビュラの託宣を宜野座も疑っているわけではない。シビュラはいつだって正しい。だが、これは違うのだと心の片隅で思う。――どうして? わからない。
「……狡噛、とりあえずこっち来い。手、怪我してるだろ」
「これくらい大したことじゃない」
「いいから来い!」
 狡噛は大人しく近づいてきた。
 滑るように近づいてきた医療用ドローンから手当に必要なものを受け取り、宜野座は狡噛に手を出させた。狡噛の言う通り、大した傷ではない。容疑者と取っ組み合いになった時に殴ってできたかすり傷だ。ドローンに治療させるまでもない。だが、それを放置したままにしておくのを見過ごせなかった。これは宜野座のわがままだ。そういう狡噛が見たくないだけだ。
「俺がシビュラの言う通りに行動しなきゃ、困るのはギノの方だろ」
「それは……」
 シビュラから見放された男が、どこか諦めたような笑みを唇に上らせた。
 宜野座は俯いて、傷口を消毒した。もう血だって止まっている。明日にはかさぶたになっているだろう。気にしているのは宜野座だけだ。
「執行官なんか使い捨ての道具だ。猟犬なんて言われる方がまだましだな。なんせ生きてる」
「だったら執行官に徹しろ」
 頼むから俺の目の届く範囲にいろ――という言葉は飲み込む。
「飼い主の見えないところで勝手に動くな」
「悪かった」
 存外素直に狡噛は謝った。以前と同じ。監視官だった頃と同じ場所を探しては安堵する自分が嫌になる。だから口を滑らせた。
「謝るくらいならするな。――標本事件、まだ調べてるだろう」
 狡噛は黙り込んだ。
 ガーゼを貼った狡噛の手を握ったまま、宜野座は顔を上げた。眼鏡のレンズ越しに睨みつける。狡噛は目を合わせようとしない。
「犯罪係数三〇〇を超えたら、執行官としてもお払い箱だな」
「そうだ。お前の代わりなんかいくらでもいる」
「そうだな」
 言った瞬間に後悔した。
 答えた狡噛の声が静かで、余計に自分が惨めになる。売り言葉に買い言葉ですらない。ただの八つ当たりだ。
「悪い、狡噛、そういう意味じゃ――」
「いや、ギノは正しいよ」
 優しいほどに宜野座の手を振りほどき、狡噛は立ち上がった。
 護送車に乗り込む後ろ姿を見送るしかなかった。もう狡噛は、宜野座と並んで歩くことはない。
 

 タンゴは一人で踊れない。
 その言葉を教えてくれたのも狡噛だった。小遣いを紙の本の蒐集につぎ込む変わった奴だった。電子書籍ならすぐアクセスできるのに、重たい紙の非効率さを気に入っているようだった。蒐集した中にはシビュラ非推奨の本も混じっていた。そのくせ、宜野座を上回る成績。身体能力も高い。総じて言えば〝変な奴〟だった。規範たろうとする宜野座よりもなお優秀だったが、不思議と嫉妬は湧かなかった。
 だが、シビュラシステムはあらゆるものに代替品を用意する。一人でタンゴは踊れないが、シビュラシステムはすぐに新しい相方を見つけてくれる。狡噛の代わりだって――宜野座の代わりだって、きっと。
 そう考えるたびに、心臓を冷たい手で掴まれるような心地がする。
 あらゆるものがあるべき場所に配置され、欠けた部分はすぐに誰かが埋める。そうやってこの社会は、荒廃した海外を尻目に未曾有の繁栄を極めている。人間関係だって例外ではない。お前の父親はどうした?とささやく声がする。父がいなくたってお前はきれいなサイコ=パスをしているじゃないか。父は潜在犯になってもまだこの社会で働いているじゃないか。
 自分もこの社会を回す歯車になることに異議はない。だが、胸に空く穴もまた本物だ。
「ただいま」
 暗澹たる気持ちで帰宅した宜野座に応えたのは犬の鳴き声だ。
 寝室の柵が開くのを待っていたダイムが勢いよく走って出迎えに来る。鞄を床に置いて熱烈な出迎えをひとしきり味わうのが日課だ。
 ダイムの食事を用意して、ついでに自分の分も自動調理機(オートサーバ)に準備させる。食欲がなくても仕事は体力勝負だ。
 胃に詰め込むように食事を終えると、見計らったようにダイムがじゃれてきた。食器は食洗機に任せ、ダイムの相手をする。ひとしきり甘えると満足したのか、宜野座の膝に頭を乗せて床に伏せた。
 テレビをつけて推奨ニュースを表示する。今日の事件が報道されている。この手のニュースを見ると、自分の仕事が社会をより良くしていると実感できる。
 だが、今日はだめだった。
 脳裏をよぎるのは狡噛の目だ。獲物を追いかける瞬間だけ爛々と輝く目。宜野座に向ける目には諦めが混ざっている。まるで、お前にはわからないよと言うような。
「どいつもこいつも……」
 おれにはわからないと言って、おれを置いていってしまう。おれには追いかけられないところまで。
 いつも誰かの二番手だった。父は自分より刑事であることを選んだ。母は自分よりメンタルケアを選んだ。たった一人の親友も自分の言葉を聞いてくれなくて事件を選んだ。いつも誰も隣に残らない。こんなにも近くにいるのに、誰も宜野座の手を取ってくれないのだ。どんなに近づいても、勝手に手を離していく。
 ――わかっているのか、狡噛。
 言えなかった言葉を胸の内に落とす。お前がおれを置いていったように、おれはお前を置いていく。
 執行官の消耗率は高い。狡噛がそうやすやすと使い潰されるとは思わないが、それもあと数年だ。監視官のキャリアを一〇年積めば、宜野座は次のポストへ昇格する。執行官は替えがきくが、監視官だって例外ではない。あるいは、宜野座が狡噛より先に――。
 その時が来るのを、あの日から何よりも恐れている。狡噛が監視官をしていた年月よりも、執行官になってからの年月の方が長くなる日がいつか来る。自分が昇進した後に狡噛が取り残されるであろう日がそのうち来る。それを宜野座が心底恐れていることを、狡噛は知っているだろうか。
「お前は、お前だけは――」
 その先を想像するのが怖い。
 ――お前だけはおれを置いていかないでくれ。
 冷たくなった手で膝の上のダイムを抱きしめると、温かい毛が頬をくすぐる。ダイムはぺろりと宜野座の頬を舐めた。
「こら、ダイム」
 泣いていると思われたのだろうか。ダイムは宜野座の軽い制止など無視して、顔をしつこく舐めてくる。宜野座は抵抗を止めて目を閉じた。顔を濡らされるのは愉快な感触ではないが、ダイムが慰めてくれる方が上回る。
 ダイムは優しい。いつも宜野座に優しい。たぶん、この世でいちばん。ダイムはいつだって宜野座の味方だ。ダイムは絶対に宜野座を裏切らない。
 だが、ダイムは人間ではない。宜野座が飼い主だから慕っているだけだ。他の飼い主に引き取られたなら、その飼い主を慕っているだろう。もちろん、他の誰にも負けないくらいの愛を注いできた。その自負はある。だが、もし自分でない人が自分と同じだけの愛をダイムに注いだら、ダイムは自分と同じだけの愛を返すだろう。
 今日みたいな日には、そういう嫌な想像をしてしまう。きっと色相はひどい色をしているに違いない。考えても仕方ないことを考えるのは悪いことだ。どうしようもないのだから放っておけばいい。そのうち風化していく。積もった塵が空いた穴を埋めるまで。
「お前が勝手に俺の手を取ったくせに、なんで勝手に行ってしまうんだ」
 きっといつか、宜野座とタンゴを踊れる人をシビュラは見つけてくれるかもしれない。宜野座が望めば。
「犬とタンゴは踊れないんだよ、狡噛」
 狡噛の傷跡は、あと何日残るだろう。
 この胸に空いた穴が塞がるまで、あと何日かかるだろう。

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