犬は好きだったわよ。だって健気で可愛いでしょう。撫でて褒めてやれば尻尾を振って喜ぶ。私の足音を聞きつけて、爪の音を鳴らしながら出迎えに来てくれる。よく命令を聞いて、私に従うことに喜びを覚える。
 犬は私を裏切らない。飼い主に忠誠を誓うのが犬だもの。私を一心に慕ってくれる犬を私も大切にしていた。散歩か欠かさなかったし、定期的なご褒美は忘れなかったし、命令を果たしたら必ず褒めてやった。毛並みだって綺麗に整えて。たまにちょっと豪華なおやつをあげたりして。これが可愛くなければ何なの?
 犬は飼い主を裏切らない。飼い主を嫌いにならない。そういう生き物だから。
 ――そのはずだったのに。


       *


「……また来たのか」
「ずいぶんなご挨拶じゃない。たった一人の同期なんだから、もっと喜んだらどうなの?」
「お前が勝手に押しかけて来るだけだろう」
 青柳が訪れた時、宜野座は植物の手入れをしていた。これは宜野座のメンタルケアの名残だ。執行官になってケアが不要になっても、植物好きは相変わらずだ。三人そろって配属されたばかりの頃を思い出す。宜野座がやけに植物に詳しいと思ったら、ホロと本物を見分けることもできると知って舌を巻いたものだった。本人は特に役に立たない特技だなんて謙遜していたが。犬に植物――父親に似てアナログ趣味なのかもしれない。
「いいじゃない、お互い出世コース外れた身の上なんだし。飼い犬に手を噛まれた仲間でしょ」
「耳が痛いな」
 宜野座が苦笑した。もう眼鏡はかけていない。前髪も短くなって、表情は柔らかくなった。そうするとますます父親に似てくる。コートの色が明るくなったのもその影響なのだろうか。
「特にもてなしはできないぞ」
「別にお構いなく。あ、ダイムくん触っていい?」
「ダイムに聞け」
 宜野座の返事はそっけなかったが、ダイムはゆっくり尻尾を振りながら青柳に近づいてきた。しゃがんでダイムの歓迎を受け入れる。スーツに付いた毛はご愛嬌だ。勝手知ったるとばかりに青柳がソファに座ると、ダイムも着いてくる。
 部屋の片隅にはトレーニングマシン。内装ホロは落ち着いた色合いの壁紙と暖色系の照明。壁には額縁がいくつかかけられている。壁際の飾り棚にはコレクションの古い硬貨が几帳面に陳列されている。厳しい外出制限のある執行官に許されている自由は、自室を着飾ることくらいしかない。
 この部屋にも何度か訪れている。実の父親――征陸執行官の部屋を受け継いだ宜野座は、どこか肩の荷を下ろしたように笑みを見せることが多くなった。以前とは大違いだ。特に、狡噛が執行官になってからの宜野座は常に張り詰めた表情だった。
 今は狡噛もいないし、宜野座も執行官だ。三人も監視官適性が出た時はちょっとした騒ぎだったというのに、残ったのは青柳一人。それを考えるたび、スプーン一杯ぶんの寂しさをまぶしたような苦みを覚えることがある。親密さで言えば同じ高校出身の宜野座と狡噛には遠く及ばなかったが、仲間意識のようなものは抱いていたのかもしれない。一人取り残されたと言うには大げさだが、だいたい似たようなものだ。監視官の負う責務は執行官のそれと比べものにならない。
 その青柳だって、監視官を一〇年務めた先のポストがもらえるかはかなり怪しいものだ。
 青柳がダイムと遊んでいる間に、宜野座はキッチンに消え、しばらくしてからポットを片手に戻ってきた。
「この香りは……紅茶?」
 宜野座が頷いた。青柳の向かいに腰を下ろす。ダイムが近寄って、宜野座が頭を撫でた。
「茶葉なんて流通してるのね」
「あるところにはあるさ」
 色のついた水が白く優美なカップに注がれる。
 青柳はカップに口をつけた。カップもおしゃれだ。宜野座のものではないのかもしれない。
 本物の紅茶の味は飲み慣れなくて、美味しいのかはよくわからない。わからなくてもまた飲みたいような気持ちになるのだから、不味いというわけでもない。
「私に出してくれてもいいんだ?」
「貴重な同期なんだろう?」
 意趣返しをされて、青柳は笑った。
「可愛くないわね」
「男に可愛いも何もあるか」
「可愛い男、私は好きよ。縢くんなんか可愛かったじゃない」
「……青柳はそういう趣味なのか」
「そうよ。そういう宜野座くんはどうなの? 女の子の好み」
「俺は別に……」
「別にいいじゃない。恋バナしましょうよ」
「……何か食事を出そうか。夕食、まだだろう」
「ちょっと、逃げる気?」
 腰を上げた宜野座はキッチンへ向かう。ダイムは床でうとうとと微睡んでいる。
「夕食、食べるのか食べないのか」
「食べる」
「どうせそのつもりで来たんだろう」
「バレてたか」
 キッチンに立った宜野座を視界の隅に収めつつ、青柳は紅茶を飲み干した。宜野座はもともと多弁な性格ではない。心地よい沈黙が天井のファンにゆっくりと攪拌される中で、ぼんやり壁の額縁を眺める。特に何をするでもなくそうやって過ごすのは好きだった。だから時々、こうして押しかけている。自由を失った宜野座に会いに行くと言い訳しながら。
 さほど時間はかからず、宜野座が夕食を出した。
「料理、するようになったのね」
「義手のトレーニングも兼ねてな」
 食器を置く宜野座の左手は鈍い輝きを放っている。征陸と同じ、無骨な金属面を剥き出しにした義手だ。表面をシリコンで覆って生身のように見せることも可能だが、本人が拒否したらしい。感傷と切って捨てるには、二人の関係はこじれすぎていた。
 夕食は煮込んだシチューとパンだった。すべてではないだろうが、本物の食材を使用した料理だ。
「まさかパンまで作ってるの?」
「いずれはやりたいが、調理器具がないからな」
 そう言う宜野座は、すっかり料理スキルが上達したようだ。こうやって時折、ご相伴にあずかる青柳から見てもめきめきと腕が上がっている。変なところに適性があるものだ。
「もう手慣れたものね」
「最近はハイパーオーツの味の方が慣れなくなってきたな」
「慣れって恐ろしい」
「違いない」
 料理は申し分なく美味しかった。片付けは食洗機に任せ、宜野座は酒のボトルを出してきた。
「飲むか?」
「誰に勧めてるのよ。私は監視官よ」
「無理にとは言わないが」
「そうね、無理に断るのも悪いわね」
 どちらからともなく笑い声を立てて、宜野座がグラスにウイスキーを注いだ。抜かりなく氷も準備されている。食事へのこだわりなんて、以前の宜野座にはなかった。青柳も関心が薄かった。それなのに、今では合成ではない料理に酒すら楽しめるようになってしまった。
 本物の酒精はサイコ=パスを曇らせる。でも、今日くらいいいじゃない――そうやって言い訳する。歳を取ると言い訳ばかり上達する。
 ぽつぽつとたわいのないことを話しながら、グラスを傾ける。人間と同じタイミングで食事を済ませたダイムはもう眠っている。ゆっくり上下する腹を見ていると、穏やかな気持ちになる。
 ――犬。青柳も〝犬〟を飼っていた。従順だけど自分の意見はしっかり持っている、可愛い犬。青柳だけの犬。――そう錯覚していた犬。
「ダイムくん、可愛いわね。神月くんと同じくらい可愛い」
 ――青柳が殺した犬。飼い主の手を噛む犬は問答無用で処分される。一度でも忠誠心を疑われたら終わりだ。お互い、知らなかったわけでもないのに。
 宜野座が目を上げた。まじまじと青柳を見つめる。
「青柳、酔ってるだろう」
「酔ってない」
「酔っ払いはみんなそう言うもんだ」
「みんなって何よ、宜野座くんだって酒飲んだことそんなにないでしょ」
「ただのよくある言い回しだろう」
「じゃあ失恋してヤケ酒するのもよくある話でしょ」
「……」
 宜野座が沈黙した。
 ――あ、ヤバい。本当に酔ってるかも。そう思いながら、口は止まらなかった。
 今までずっと、誰かに喋りたかった。言っても受け止めてくれる相手はあらかたいなくなったから黙っていられたのに、宜野座には口が緩んでしまう。監視官だった頃の宜野座には絶対に言わなかっただろう。今なら言えると思うのも卑怯かもしれない。
「いつまで失恋引きずってんのよって話だけど。我ながら情けないわ」
「……俺は何も聞いてない。お前が勝手に独り言を言うんだ」
 宜野座が苦し紛れみたいに言葉をひねり出すものだから、青柳は笑ってしまった。
「優しくなったわね」
「今まで優しくなかったみたいな言い方はやめてくれ」
「そうね。宜野座くんは昔から優しかったわね」
 宜野座が眉をひそめて青柳を見下ろした。
 ――見下ろされている?
 いつの間にか身体が傾いで、ソファに寄りかかっていた。本当に酔ったのかもしれない。
「神月執行官、知ってるでしょ」
「……ああ」
「彼とね、付き合ってたわけ。結構長かったわね。三年? 五年くらいあったっけ。えっーと、私が入局して――」
「待て青柳、それは俺が聞いてもいいのか」
「あら、宜野座くんは何も聞いてないんじゃなかった?」
「う、それは……」
 困ったように宜野座は視線をさまよわせた。
 喉の奥で笑いながら、青柳は身体を起こした。三〇歳を目前にした男にしては可愛い反応じゃない。
「……局長に何か言われなかったのか」
「まさか。執行官だって恋愛は自由よ。結婚はその限りじゃないけど」
 ――結婚。自分で言いながら、その言葉が優しく心の表面を撫でていく。結婚願望は薄い方だった。キャリア官僚なんてみんなそんなものだ。考えたことがなかったわけではないが、自分とは無縁の言葉だった。
「宜野座くんは?」
「俺の話は別にいいだろう」
「何かやましいことでもあるの?」
「ない」
 即答する割にはどきまぎする宜野座の顔が面白くて、青柳はグラスに再び口をつけた。

 
       *


 犬を飼っていたのよ。
 私の足音を聞くと、ぴんと耳を立てて走り寄ってくれるの。少し身体は小さかったけど、とても賢くて私の命令をよく聞いてくれたわ。とっても可愛くてね。他の犬もいたけど、その子がいちばんだったわ。〝狩り〟で優劣をつけているつもりはなかったけど、あんまりいいことじゃなかったかもね。でも、私のサイコ=パス、きれいでしょ?
 あんなに愛していた犬を殺しても、私はちっとも濁らない。濁る前に蓋を作ったの。
 湧き上がる感情を抑えつける、重い蓋。蓋の下には濁った感情がわだかまっている。君を愛していたのよ。でも君は足りなかった? 愛していたのは私だけだった? 嘘でも永遠を約束してあげればよかった? 私は悪い飼い主だったかしら。ねえ、私を嫌いになったの?
 一人でも生きていける。私は弱くない。だけど、一人じゃない方が好きだったの。
 蓋の下から出てきそうになる感情を抑える。孤独。責務。寂寞。後悔はたぶんなかった。
 それだけが救いだったかもしれない。
 

       *


 比較的酒が飲める体質だと知ったのは宜野座のおかげだ。監視官に酒を勧めるなんて、以前の宜野座なら考えられない。もっとも、以前の宜野座なら酒を持っていることもなかっただろう。あれはすべて遺品だ。宜野座はいつも、いなくなった人の残滓に浸っている。
 いつもより酔いが早いと思った時には遅かった。
 目を開けると、ソファの上に横たわっている。自室ではない。何度か見た内装――ここは宜野座の部屋だ。
「あれ、私、寝てた?」
「疲れてるんじゃないのか」
 宜野座のグラスに残った氷が音を立てた。水差しが置かれている。宜野座はさして酒に強いわけでもない。グラスをテーブルに置いた宜野座は、少し眠たげに睫毛を上下させた。
「そろそろ帰った方が――」
「ねえ、宜野座くん」
 体調を心配してか、青柳に近寄った宜野座の腕を掴んだ。油断していたのだろう、宜野座は簡単に身体を引っ張られ、体勢を崩してソファの背もたれに腕をついた。ちょうど青柳の顔の隣だ。ぐっと距離が近づく。キスでもできそうなくらい。
「……悪い」
「いいわよ。今夜は」
 ねえ、と青柳はささやくように言って、宜野座に手を伸ばした。首に触れる。宜野座は固まっている。かすかに緑がかった瞳が驚きに見開かれて、無防備に青柳を見下ろしている。
「寂しいの」
 直接言わなくたってわかるだろう。二人とも十分に大人なのだから。
「宜野座くんはこんなところにいて寂しくないの?」
 ――飼い犬に逃げられて。私と同じように。
 ――違う。私とは違う。もう違うのだ。
 宜野座は顔を逸らした。
「寝るならベッドに行け」
「宜野座くんはどこで寝るの」
「ソファがある」
「悪いわよ」
 だから二人で――と青柳が言おうとしたのを見越していたのか、宜野座は青柳の口元にグラスを突きつけた。
「お前は酔っている。まずは水を飲め」
 青柳が拒否しようと口を開いた瞬間、有無を言わせず唇にグラスを押し当てられた。
 軽くむせそうになりながら、青柳は水を飲んだ。こぼれた水はすかさず宜野座がタオルで拭う。その動作が完全に酔っ払いの介抱で、色気も何もあったものではない。
「もう、そこまで言うならベッド借りるから」
「構わないと言ってるだろう」
 宜野座の手を振り払うようにして自力で身体を起こし、青柳は寝室に向かった。
 なんであんなことを言ってしまったのだろう。人肌が恋しいだなんて、馬鹿みたい。神月の代わりはいない。宜野座は青柳の〝犬〟ではない。でも、一回くらい乗ってくれてもいいじゃない。上着を脱ぎ捨て、むしゃくしゃしながら青柳は目を閉じた。
「ソファで寝て、明日肩凝りにでもなればいいのよ」
 我ながら八つ当たりが過ぎる言葉に少し笑いが出た。枕からかすかに体臭を感じる。嫌な匂いではなかったのが、いいことなのか悪いことなのかは判断がつきかねた。
 眠りはすぐに訪れた。



 翌朝、案外すっきり目が覚めた。デバイスを確認すると、いつもの時間だ。あんなに酔っていたのが嘘のように、すがすがしい気持ちだ。これが青柳の監視官としての特性だった。だいたいいつも、眠ればどうでもよくなる。よくない感情を持ち越さないのが、この職務に求められる能力のひとつだ。でなければ一〇年も監視官なんてやっていられない。――青柳がもうすぐ手が届きそうな年月、宜野座が脱落した年月。
 青柳が寝室から出ると、宜野座はもう起きていた。ソファで寝ていたくせに肩凝りとは無縁のようだ。少し髪が跳ねているところくらいしか、寝起きらしさが見当たらない。
 キッチンにいる背中に言葉を投げつける。
「ねえ、なんで慰めてくれなかったのよ」
 この意気地なし、と言おうとしてやめた。
 宜野座は振り返った。征陸に似て穏やかな顔だ。顔立ちは目元を除けばちっとも似ていないのに、まとう雰囲気はどんどん似てくる。――それが君の素顔なの?
「俺はやめておけ」
「なんでよ」
「お前が本気じゃないからだ」
「……ずるいわよ、そんなの」
 ――本気だったら相手してくれるの?
 宜野座は意に介さず、食事の支度をしている。朝から手作りとは恐れ入る。青柳はカウンター越しにキッチンを覗き込んだ。無骨な義手が繊細な動きをしている。もう十分に使いこなしているようだ。失くした腕の代わりは身体になじんでいるらしい。〝今〟はいずれ過去になるのを見せつけられているようだ。
「別に、君でもよかったのかもね」
「何か言ったか?」
「独り言よ」
 寝室に戻って上着を回収し、洗面台で顔を洗って髪を整える。後で自宅に戻って着替えた方がよさそうだ。
「ほら、できたぞ。食べてから行け」
 朝食はパンと卵。青菜のサラダ。鼻をくすぐる複雑な匂いと凝った見た目からして、合成ではなさそうだ。
「まったく、監視官に何食べさせてんのよ」
「不味くはないと思うが」
「そういうことを言ってるんじゃないわよ」
 今更の話だ。宜野座の手料理をもう何度も食べている。だが、色相に変化はない。むしろ宜野座の元を訪れると、少し好転するくらいだ。だからこれは甘えなのだろう。
「私たち、運命じゃなかったのね」
「……何の話だ?」
「こっちの話」
 わかってくれると青柳が勝手に期待して来るのに、宜野座は望んだ言葉をくれる。それは運命でなくたってありがたいことだ。
 青柳の〝愛犬〟とは似ても似つかぬ秀麗な顔立ちで、宜野座は首を傾げた。
 やっぱり宜野座は青柳の好みとはほど遠いのだ。

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