「常守監視官」
 側にやってきた宜野座がやや緊張した面持ちで改まってそう言うので、朱も身構えた。また何かトラブルだろうか。
 先輩だった宜野座が執行官に〝降格〟してからまだ日は経っていない。壊滅的な被害を受けた一係は立ち直ったというにはほど遠いのが現状だ。片付けなければいけないことは山ほどあるのに、まだ市民のメンタルは不安定で、エリアストレス警報の頻度は高止まりしている。
「執行官のペット飼育の許可を取りたいんだが」
「……はい?」
 予想よりずっと平和的な響きの言葉に、朱は拍子抜けした。
「ペットって、ダイムくんのですよね」
「そうだ。面倒を見てもらってすまない。まだペットシッターに預かってもらっているんだろう?」
「いえ、気にしないでください。ダイムくん、聞き分けもよくて」
「散歩は大変だっただろう」
「それは……あはは……大型犬って本当に大きいんですね」
 公園でダイムを散歩させた時、ぐいぐいとリードを引っ張られて半ば引きずられる有様だったのを思い出し、朱は苦笑いした。
 宜野座が事件後に入院してから、飼い犬の面倒を見ていたのは朱だった。といっても、実質的に世話をしたのは一週間かそこらだ。用意周到なことにそういう手はずになっていたようで、いつも利用しているペットシッターを案内され、すぐに預けることになった。
「許可、いるんですね」
「執行官は何でも許可が要る。潜在犯だからな」
 犬が犬を飼うのも変な話だ――とこぼれた独り言には聞こえないふりをした。
 潜在犯というものが、朱にはよくわからない。縢は五歳で潜在犯になったと言った。でも、一緒にいる時の縢はそんな恐ろしいものではなかった。何を考えているのかわからないと言うなら、狡噛の方が格段にわからなかった。縢はもういない。潜在犯になった宜野座は以前と違うのだろうか?
「私、今初めて聞いたんですけど、どういう書類なんですか? あと提出先って……」
「ああ、常守監視官は見たことがないな。俺も見たのは一度だけだ。まさか自分が書くことになるとは思わなかったが」
 苦い笑みが宜野座の顔をよぎる。
「ペット自体、珍しくなりましたしね」
「書類のテンプレートはそこのフォルダにある」
 宜野座に指示された共有フォルダを開くと、ずらりとファイルが並んでいた。ファイル名にはいずれも「テンプレート」と記されている。
「え、これ全部書類のテンプレですか?」
「そうだ。いつ新人が配属されるかわからなかったからな。刑事課はこの通り、常に人手不足だから俺がつきっきりで指導するわけもいかないだろう」
「助かります」
「役に立てて何よりだ」
 今度は嬉しそうに宜野座は微笑んだ。
 たしかに、以前とは別人のようだ。きりきりと限界まで絞られた弓のような雰囲気は消え失せて、今の方がずっと先輩らしい。
「書類はさっき送ったから、あとは監視官の電子サインをここに」
 言われるがままファイルを開けば、既に宜野座の名前と申請理由が記入されている。いかにも官僚らしくそつのない言い回し。そういうところを目にすると、宜野座が八年近く年長であることを思い知らされる。朱なんて、まだ配属から半年に届くかどうかだ。
「いい機会だから説明しておくか。そこのフォルダは頻度が高いものを入れている。いちばん上のやつは執行官が器物損壊した時に使う。その下のは労災――まあ、主に執行官が怪我した時だな」
「私が何か壊したらどうなるんですか?」
「局長に怒られる」
「じゃあ、私が怪我したら?」
「俺が怒る」
 冗談なんだか本気なんだか、朱にはわからない。
 その後もいくつか書類の説明を受けた。刑事といえども、監視官は官僚としての性格が強い。現場だけが仕事ではないのだ。
「これじゃどっちが監視官かわからないな」
 皮肉というには穏やかな口調だった。この人はもう気にしていないのだろう――と朱は宜野座の顔を盗み見た。眼鏡は完全にやめたらしい。口調と同じく穏やかな表情も、まだ不思議な心地がする。朱にとっての宜野座とは、ずっと張り詰めた表情のちょっと冷たくて恐い先輩だった。初対面の印象というのはいつまでも残るものだ。とても温かみのある人ではなかった。
 今ではわかる。宜野座も朱に意地悪していたわけではない。
 ――悲しいと思うのは失礼なのだろう。だって、宜野座が納得しているようだったから。あるいは、監視官だった時よりも。
「なんだかすごく、今の宜野座さんは先輩っぽいです。OJTされている気分です」
「ああ、……そうだな。これもOJTに入るのか」
 ぱちぱちと瞬きして、宜野座ははにかんだ。こっそりと秘密を教えてくれるように声を潜める。
「実は常守監視官が初めての後輩なんだ」
「そうだったんですか?」
「常守監視官が来る前は一人で。――その前は狡噛と。更にその前は先輩の監視官と。だから、後輩ができたのは初めてだったんだ」
 宜野座が前髪を掻き上げた。室内でも外さない手袋が目につく。過去形で語るには生々しい傷口で、二人とも完全に癒えたわけではない。癒える日が来るかもわからない。いつか傷跡をなぞって二人で昔話にできる日が来るのかも。
「常守監視官には期待してるんだ。俺よりずっと出来がいいみたいだから」
「そんな。期待しすぎですよ。私なんてまだまだです」
「そうだな、あなたには苦労をかける。本当はまだ新人でいさせてやりたかったが」
 征陸によく似た温和な顔で宜野座に見下ろされる。
 刑事課に早くも新人が配属されるとは聞かされているが、まだ少し時間がある。元より監視官の適性は稀だ。刑事課ともなれば訓練所での研修に半年かかる。しばらく一係を一人で回す自信はどうにも持てなかった。宜野座は三年も一人だったというが、まだ一年目の朱には少し荷が重い。
「もちろんいつでも頼ってくれて構わない。頼りないかもしれないが」
「そんなこと……そんなことありません!」
 思ったより強い口調になってしまって、朱は我に返った。一係を長く引っ張ってきたのはこの人なのだ。執行官になったとしても、今までの経験が消えるわけでもない。
 朱は椅子を回して、宜野座に向き合った。窓から差し込む春の陽光が宜野座の身体のふちを光らせている。
「あの、宜野座さん。これからもサポートお願いします」
「――喜んで」
 あなたはおれの希望なんだ――と宜野座は恥ずかしげもなく口にして、朱は頬を赤らめた。

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