緊急出動から刑事課フロアに戻ったら、カウンセリングの予約を入れるのは身に染みついた習慣だった。
 手錠じみた無骨なデザインのデバイスを立ち上げて、カウンセリングの予約を取ろうとして、はたと気づいた。もうこれは自分に必要ない。
「宜野座さん、どうかしたんですか?」
「……いや、何でもない。監視官だった時の習慣が抜けなくてな」
 宜野座の言葉に、朱は少し眉を下げた。宜野座が元監視官であることに言及するたび、彼女はそういう顔をする。悲しげで、何か言いたいことを耐えているような顔だ。――おれも狡噛にこんな顔を向けていたのだろうか?
「もし調子が悪いようだったら……」
「すまない。何でもなんだ。ただ、癖というのは面倒だと思っただけだ」
 苦笑いして、宜野座は手を下ろした。手錠のような執行官デバイスが嵌まった左手は機械だ。父親と同じ。きついリハビリを受けたが、自分の意思通りに動くのが今でも不思議だ。
 机に座って、PCを立ち上げる。メンタルケアの薬剤も、もう服用していない。矯正施設にいた頃には処方されていたそれらを、執行官になってから一度も口にしていない。監視官だった時にはカウンセリングを始めとして、メンタルケアを決して欠かさなかった。それが義務でさえあった。今や、その義務から解放された。――されてしまった。そのせいか、なんだか落ち着かない。いつも行っていた動作を行わないことに身体が慣れていない。
 宜野座は軽く頭を振った。前髪を掻き上げようと手を上げたところで、再び苦笑する。髪は切ってしまった。眼鏡もないのに、位置を直そうとしてしまう。本当に、癖とは抜けないものだ。
 気を取り直してディスプレイに向き合う。立場は変われど、この仕事は変わらない。執行官たちのいい加減な報告書に頭を悩ませていた頃が懐かしい。むろん、今の宜野座が執行官だからといって手を抜いたりはしない。それでは先輩としての面目が立たないというものだ。
 手早く報告書を書き上げて朱に送信する。
「さすがですね、宜野座さん」
 朱の机の前に立てば、感嘆したように朱が言う。
「伊達に歳はとってないさ」
「私よりずっと先輩ですしね。頼りにしてます」
 朱は軽く笑った。今度は冗談と受け取ってもらえたようで、軽く胸を撫で下ろす。冗談のセンスがないのは自覚している。
「それじゃあ、俺はこれで」
「今日は早いですね」
「たまにはな。常守監視官もあまり根をつめすぎないように。わからないことがあれば連絡してくれて構わない」
「助かります。それじゃあ、お疲れ様です」
 先に帰るのも何年ぶりだろう。執行官たちの個性豊かすぎる報告書を手直しするのも仕事のうちだった。とりわけ、一人で猟犬四頭を飼っていた頃は、執行官たちが宿舎へ戻る背中を一人で見送るのが常だった。
 新鮮な心持ちでフロアを後にする。刑事課のフロアを出て、いくらも歩かないうちに自室にたどり着く。執行官の宿舎は同じ敷地内にある。文字通り、ここが宜野座の檻だった。
 部屋に帰れば、ダイムがゆっくりと尻尾を振って出迎えてくれる。前と変わらない。部屋は随分変わった。広さは十分ある。むしろ前より広いかもしれない。だが、この部屋が今の宜野座の自由に行動できるすべてだ。窓はない。仕事が忙しすぎて窓の外を眺める暇などなかったから、大した問題ではない。ホログラムで装飾できるのだから、どこに住んだって変わらない。変わらないのが普通なのだ。
 ダイムの毛並みをひとしきり堪能した後、デバイスを立ち上げて自分の色相を確認した。濁った赤っぽい色が表示される。犯罪係数はずっと一四〇前後で推移している。良くも悪くもならない。
「何も変わらない、か」
 自嘲の笑みがこぼれた。
 メンタルケア剤の服用もせず、カウンセリングも受けず、色相の濁るようなことばかりしているのに、矯正施設にいた頃と同じ色だ。あれほどまでに色相に気を遣っていたのが馬鹿みたいだ。こんなものだったのか。こんなもののために自分は必死になっていたのか。
 立ち上がってキッチンに入る。食洗機から食器を取り出し、食器棚に移す。単身者向けの住宅に住んでいた頃よりもスペースが広い。誰を呼ぶわけでもないのに。
 無意識にコップに水を入れていた自分に気づく。薬剤はとっくに服用をやめたのに、身体は未練がましく動作を繰り返す。心を置いて身体は動く。あるいは、心の変化を身体が拒んでいるように。
 左手を握りしめる。高性能な義手は生身の腕と何も変わらずに動く。むしろ生身よりも頑丈で腕力もあるくらいだ。ないのは皮膚感覚くらい。物を触っても熱くも冷たくもない。火傷もしない。それだって大したことではない。
 何でも代わりが用意される。代替品で世界はうまく回っている。宜野座自身も。何ひとつ替えのきくものではなかったはずなのに、まだこうして息をしている。用意された替えは全く同じではないが、それでも十分に機能を果たせる。この社会にとっての自分だって。
「思ったより色相が濁らなかったんだ、――」
 続く言葉を、呼ぼうとした名前を飲み込んだ。誰を呼んでも返事はない。
 もっと色相が濁ると思っていた。一〇年来の友人は逃亡。実の父親は殉職。部下も一人逃亡扱いだが、おそらく既に死亡しているだろう。今まで必死に守ってきたものがめちゃくちゃに壊れたのに、この程度だったのか。こんな浅い場所が底だったのか。これじゃあまるで、大して大切じゃなかったみたいじゃないか。
「もっと早く気づけばよかったのか、親父」
 あがいて、もがいて、そうして自分は何を成し遂げたというのだろう。
 諦めたら、そこで色相の悪化は止まった。もっと早く諦めていたら? 父親に言われたように、ただ流れに身を任せていれば? そう考えたことは一度や二度ではない。考える時間はたっぷりあった。真っ白なだけの部屋で、他人と隔絶され、社会と隔絶され、一人で己の心と向き合う間に何度も問いかけた。
 ――違う、と否定する。今までの自分のやってきたことが無意味だと思うということは、自分のために死んだ父を冒涜することに他ならない。その死に見合っただけの何かを残さなければならない。それが宜野座の新しい責務だ。生き残った者が負うべき責任だ。答えを出したから古巣に戻ってきたのだ。
 目を閉じれば闇が広がっている。進むべき道は途絶えて、この手は誰とも繋がっていない。だけど、まだ手を伸ばしている。頭上に見える細い一筋の光へ。その光が見える限りは、まだ追いかけていたい。
 左手に握ったままのコップの水を飲み干した。義手で感じることができなかった水温は、少し冷たかった。
 ――それは嘘ではないのだと、信じていたいのだ。まだ、その力が自分に残されているのだと。信じることは罪ではないのだと。
 ぎしり、と軋んだ音は、あるいはコップではなかったのかもしれなかった。

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