たまに出される天然食材を使った祖母の料理は、伸元の楽しみのひとつだった。だんだん入手が難しくなっていく天然食材を買ってきて、一品だけ、あるいは一部の食材だけ代用して作る。決して豊かではない生活の中で、それが料理好きの祖母の気晴らしでもあった。「合成より天然物の方がおいしい」というのが祖母の口癖だった。合成は安くて日持ちもするし、手軽でいいけど、味も香りもかなわないのだと祖母は料理を作るたびに言う。
 母が料理をしなくなってから何日経ったかは覚えていない。母が話しかけてくれなくなってから何日経ったかも覚えていない。いつの間にか、母のやっていたことが祖母に置き換わっていった。嵐の後のような奇妙に凪いだ心で、伸元はその変化を受け入れた。
「おばあちゃん、手伝うよ」
 学校から帰って、キッチンに立つ祖母の背中に近づく。
 祖母は振り向いて、くしゃくしゃの顔をほころばせた。
「今日は肉じゃがよ。天然の食べ物が手に入ったの」
「えっ、肉も?」
 だいたい月に一度、祖母は天然食材を買ってくる。その日に何があるのかを祖母は言わない。伸元も聞かない。
「お肉は買えなかったから、じゃがいもが天然。後は合成」
「ふうん」
「本物のじゃがいもはね、ちょっと煮崩れしているくらいがおいしいの。合成だとこうはいかないのよ」
 急速に普及した自動調理機(オートサーバ)は伸元の家にもある。母は家事をしないし、祖母は高齢だから体調が悪い時には料理ができない。そういう時は、伸元が家庭用オートサーバで食事を用意する。決して嫌いな味ではないが、料理と呼ぶには抵抗がある。その違いが何なのかを言い表す言葉を伸元は持っていない。
「伸元はこのじゃがいもの皮を剥いてくれる?」
「うん、わかった」
 最近は踏み台を使わなくてもキッチンに手が届く。誰に似たかは知らないが、伸元はクラスの中でも背が高い方だ。最近は手も足もかなり大きくなってきて、もっと伸びるだろうと先日も祖母に言われたばかりだ。
 きれいに洗われたじゃがいもはまだ濡れている。ボコボコした表面にピーラーを当てて、すっと下方向に引くと皮が剥ける。へこんだところには小さな丸いもの――芽がある。じゃがいもの芽は毒があって食べられないと教えてくれたのは祖母ではなかった。祖母に似て、料理が好きな母がそう言った。
「ああ、包丁は危ないからおばあちゃんがやるわよ。伸元はそこのじゃがいもを全部剥いてね」
「うん」
 指を切らないでね、そんなに力を入れなくてもいいのよ、ゆっくりでいいから、芽は後でお母さんが取るからね――母の声が耳の奥でささやく。
 伸元が皮を剥いたじゃがいもの芽を祖母が手早く取っていく。
「じゃあ、次はじゃがいもを切ってくれる?」
 伸元は頷いて、まな板の上にじゃがいもを載せた。慎重に不揃いな形のじゃがいもを左手で押さえ、右手で包丁を斜めに入れる。引くようにして切るのよ、そうすれば力を入れなくても大丈夫――母の幻聴は続く。
 その幻聴に重なるように、今日同級生が話していたことを思い出す。――天然食材って色相が濁るんだってさ。彼らは伸元を横目で見て、薄ら笑いを浮かべながらひそひそと会話する。伸元に聞こえるように。
 嘘だ。今まで祖母も伸元も食べてきた。でも、そのせいで色相が悪化したこともない。だいたい、これくらいの量と頻度で影響するわけがない。
「上手ね」
「これくらい簡単だよ」
 少しだけ嘘をついた伸元の頭を祖母は撫でた。
 食材を切った後は祖母の役割だ。まな板や包丁、ボウルは食洗機に入れて、伸元はリビングで宿題を始めた。
 ちょうど宿題が終わった頃に夕食は完成した。二人で夕食を摂るのもすっかり慣れたものだ。
 伸元はテーブルを片付けて、料理を皿によそって並べた。香りが鼻から入って肺いっぱいに広がる。たしかにこれは合成食材よりはるかに強い。
「ね、おばあちゃん。天然食材が色相濁るって聞いたんだけど」
「まさか。合成ができる前はみんな天然のを食べてたのよ。それじゃあ昔の人はみんな色相が濁ってたってことになるじゃない」
「うん。そうだよね」
「何か学校で言われたの?」
「ちょっと……クラスのやつが、色相が濁るって言ってた」
 祖母は箸を止めた。穏やかに言う。
「それはちょっと違うとおばあちゃんは思うの。もう天然の食べ物は珍しくなったでしょ。珍しいっていうのは知らないってこと。知らないっていうのはね、恐いのと同じなの。たぶん、色相が濁るっていうのはそういうこと」
「知らないからこわい?」
「そう」
 祖母はたまに年寄りぶったことを言う。お説教じみた押しつけがましさがないから、伸元も素直に聞く。
 伸元はじゃがいもを箸でつまんだ。角が少し崩れている。これがおいしいのだと祖母は言う。そういうものかな、と伸元は思う。
 薄く茶色になったじゃがいもを崩さないようにして口に入れた。噛んだ途端に形がほろほろと崩れる。だしとしょうゆ、塩味の奥に甘い味。賭け値なくおいしい。祖母は調味料もなるべく昔風のものを探してくる。じゃがいも以外の野菜と肉は合成だが、祖母はせめて見た目だけは、とわざわざ成形されたものを買ってくる。見た目も料理だからだそうだ。――こんなにきれいな料理が色相を濁らせるなんて、嘘に決まってる。
 じゃがいもを飲み込んだ時だった。
「う、……」
 唐突に吐き気がこみ上げた。伸元は箸を握ったまま口元を押さえた。飲み込んだはずのじゃがいもが食道を逆流してくる。気持ち悪い。さっきまであんなにおいしかったのに。
「伸元!」
 慌てて祖母が駆け寄ってきた。
「気持ち悪いの? とにかく吐いて!」
 背中を抱えられて、トイレに駆け込む。そこで伸元は食べたものすべてを吐き出した。
 口をゆすいで席に戻る。祖母は心配そうな顔をして伸元を見つめた。
「もしかして腐ってたのかしら。ごめんね」
 そんなわけない。祖母はごく普通に食べて、なんともない。味だっていつも通りだった。
「無理して食べなくてもいいのよ。今日はもう寝る?」
「違うよ、おばあちゃん……」
 伸元は箸を手に取った。自分の皿に残っている合成肉をつまんだ。息を止めて肉を口に放り込む。噛む。飲み込む。――何も起きない。他の野菜も食べる。吐き気はなかった。
 じゃがいもをよけて、伸元は夕食を食べ終えた。残されたじゃがいもを見た祖母が悲しげに眉を下げた。
「ごめんなさい、おばあちゃん……」
 せっかく作ってくれたのに、という言葉は祖母の胸に吸い込まれた。
「いいの、いいのよ、食べられるものがあるなら」
 立ち上がった祖母がテーブルを回り込んで、伸元を抱きしめた。皺だらけでかさついた手が伸元の頬を撫でる。ささくれのある皮膚が伸元の肌を軽く引っかいたが、不快とはほど遠かった。痩せた祖母の身体を伸元も抱き返した。祖母の手はひたすらに温かかった。
「天然の食べ物はちょっと高いしね、くせもあるから。気にしなくていいのよ」
「ごめんなさい……」
「謝らないで、ね、伸元……」
 祖母の声も涙に濡れている。もう天然食材が食卓に上ることはないだろう。



 食器を片付けた後、伸元はリビングの引き出しからこっそり母名義の通帳を自分の部屋に持ち込んだ。
 ――こんなの嘘っぱちだ。みんな嘘なんだ。みんな本当じゃないんだ。
 心の中でそう唱える。祖母が代わりに管理している通帳を見れば、お金が振り込まれている。つい昨日のことだ。瞼に涙が勝手ににじんでいく。
 伸元はぐいっと目元を拭った。後から後から勝手に涙が湧き上がって困ってしまう。まだこの感情を己一人で処理するには、伸元はどうしようもなく子どもだった。天然食材が何だというのだ。祖母はこれを食べて育ってきた。今も何も問題はない。みんな嘘だ。
 通帳に毎月振り込まれる金の送り主が誰かなんて、言われなくたって知っている。この家に母と祖母しかいなくなった時から律儀にずっと振り込まれている。止まったことはない。減ったこともない。この金で一家が豊かでなくとも人並みの暮らしをしていることがわからないほど、伸元は幼くはない。幼くいられなかった。
 食費の出所を伸元は知っている。学校でいじめられる伸元のために、「何かおいしいものでも」という一心で祖母が食材を買ってくることも知っている。今まで平気だったのに、今日は平気じゃなかった。きっと明日からはもうだめなのだ。
「……帰ってきてよ、お父さん」
 何年か前の写真で記憶は止まっているから、もっと老けたかもしれない。同級生たちの父親の顔を見るたびにそう想像する。どんな風に歳をとるの? 家族を置いてどんな気持ちでいるの? どんな気持ちで仕事をしているの? そんなに仕事が大事だったの? ぼくたちよりも?
「帰ってきたくないの? じゃあなんでお金だけ送ってくるの」
 ――どうして、ぼくたちを捨てたくせにお金は送ってくるの?
 父は二度と天然食材を食べられないだろう。施設に入ったら出られないと言われた。それが本当なのか、伸元は何度も確かめた。今、父が何をしているのかも調べた。子どもだからと適当にあしらわれて、潜在犯の子だからと露骨に嫌そうな顔をされて、いつしかその疑問を口に出すことはなくなった。
「わからないよ……」
 祖母の優しさだけは嘘じゃない。そう思っても、二度と天然食材は食べられそうになかった。それどころか、触(さわ)れもしないだろう。
 食べられないのは別に構わない。だが、母と料理した思い出が塗りつぶされていくことが、たまらなく胸を切り刻んだ。

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