サイコパス3の外国人の表象について。
時事ネタとして入国者(移民および難民)が激増した社会という設定で主人公の片割れを移民2世にしておきながら、このアニメは当の日本にいる移民が視聴者に含まれる可能性を想定していないように思う

冲方氏のインタビューで日本に外国人が多く居住していることや外国人差別へ言及しているにもかかわらず、時代遅れなステレオタイプ的外国人や、表面的にすぎる差別の描写のオンパレードであることははなはだ不愉快でならない
興味がないからこんな浅い描写だったと思っていたのに

①わたしが最も不愉快だったのは、開国政策以前から日本に居住し、社会的地位が比較的高い準日本人の姿がとても少ないこと、それらのポジションにいる移民が白人、しかも金髪碧眼という白人の中でも少ない外見をしていること。これはまったく現実に即していない

花城と炯は国家公務員のキャリア官僚だが、現実の日本における移民の過半数はアジア系、とりわけ韓国・朝鮮系と中国系。ベトナムやフィリピン系も多いが、教育熱心なのは華僑であり、高等教育を受けた移民は必然的に中国系が多くなる。これはわたしが卒業した高校、大学で実際に見られた傾向
2020年にもなって外国人=白人という偏見に無自覚とは…

東京の学校なら外国籍の子どもやハーフがいない方がおかしいが、移民をテーマとしない作品がこの要素をカットすることについては必ずしも非難されるべきではない。要素の取捨選択はストーリー構成上必須なので
しかし、これほどあからさまに移民を取り扱ったにもかかわらず、数十年前の認識でストップしていることに無自覚なのは鈍感すぎる

②シビュラシステムが入国者を認めたにもかかわらず、外国人差別がなぜ起きているのか明言されなかったのも不可解でならない。
第1話での炯の行動を見るに、差別への対処について誤った認識があるように思う

炯はドミネーターを使わずに入国者たちを説得したが、人種が反対だった場合にも同じように対処したのだろうか?
「差別される外国人は可哀想」という思想を節々から感じてこれもまた不愉快だったが、可哀想な存在だから特例で対処することもまた差別だ。同じ人間として認識していないことになるから

炯の立場としてはむしろ苛烈なまでに平等でいること、同胞への憐れみを見せないことを自らに課すべきだろう
このキャラ造形は宜野座が完璧に果たしているので、キャラが被らないように炯を違う人格にしたのだろうが、灼は炯に何をしたのかが本編中で明確にならなかったのは構成上の欠陥でもある

灼だけが炯を差別しなかったから炯は宜野座のようにならなかったと思われる(宜野座と違って幼なじみや兄、後見人がいたことも影響している)が、本編中では炯が灼をサポートする姿しか見られない

改めて第1話を見て、炯が入国者たちに優しくしている姿を肯定的に描いていることが逆説的に作中での入国者と日本人の軋轢を示唆しているようにすら思える。つまり「入国者が不当に優遇されていると日本人が感じているのではないか」ということ
同じ罪を犯したのなら同じように裁かれなければならない

③外国人差別がヘイトスピーチ的なあけすけな差別発言として描写されるのも時事ネタとしてそぐわない
現実としては20年前でもこのような発言は差別として明確に認識されており、公共の場で許されることはなかった

差別はもっと巧妙で、偏見はよりわかりにくい姿をしている。たとえばわたしが実際に浴びたのは「なんで母語ができないの?」とか「漢文そのまま読めるんでしょ、羨ましい」など
移民の子どもが母語能力を維持・発達させるには多大な労力と時間が必要だが、まるで生まれながらにして特に努力も必要とせずに母語ができるようになると思い込む人のなんと多かったことか
(わたしは昔から「英語ができないハーフ」をネタにするテレビが嫌いだった。日本育ちで日本人と同じ教育を受けたハーフが日本人と同じく日本語しか話せないのはごく当たり前のことである)

結論が欠落していることも含めて、外国人の表象という面から見れば、この作品は移民が多く存在する社会を描きながら、作り手は日本人だけで構成されたコミュニティから外を眺めて、良い子ぶって「差別はいけません」と唱えているだけである

もっとわかりやすく言うと、わたしは非白人の移民で移民のうちでは多数派ですが、たいていのフィクションではいないことにされます。2020年にもなって移民をテーマにした作品ですら無視され、視聴者としても想定されていないようなのでとても腹が立ちました
わたしは日本に長く暮らしているんですよ

既に述べた通り、フィクションが必ずしも現実に即している必要はありませんが、外国人のわかりやすいアイコンとして現実の人口比を無視して金髪碧眼や黒い肌を多用しがちなことに疑問を呈しています。
白人に金髪碧眼という外見を与えがちなことも同様です。白人=金髪碧眼はまぎれもない偏見です

時事ネタの有利な点は説明を省略できることであり、逆に言うと現実と異なるのであれば時事ネタとして成立しません。現実を反映しないなら社会派などと名乗ったり持ち上げるべきではありません

白人が人種ゆえに優遇されるならシビュラシステムの公平性は崩壊しており、またそのような設定であるなら、作中で「白人として得をしている」花城や炯が(メタ的に)批判されるべきでしょう

これもまた述べた通りですが、作中における差別に関する描写は宜野座(潜在犯の息子)が完璧に果たしており、後から出てきた入国者の描写は比較して薄っぺらく見えます

鎖国政策開始前にいた移民の子孫たちはみんな殺されちゃったのかな…国外に棄民されちゃったのかな…ってずっと思ってる

チェグソンの出身国が韓国もしくは朝鮮なのはもう忘れられてしまったのだろうか

キャリア官僚の花城と炯、著名な数学者でホワイトカラーのディックが白人で差別されるシーンの入国者が有色人種の顔立ちなのはぎょっとしたけど、むしろここに「白人と非白人の入国者間の軋轢」や「白人だから入れてもらったんだろと侮辱される花城や炯」の描写があれば社会派として完成度が高かった

シビュラ社会は教育の機会が公平に与えられるはずなので、アファーマティブアクションという概念もなさそう

シビュラシステムの公平性は「サイコパスを唯一絶対の指標とする統一された価値観」によるので「黒い肌も素敵ね」ではなく「肌の色?それサイコパスに関係あるんですか?」って感じだと思っていたから、シビュラにクリアと認められた入国者がなぜ差別されているのかそもそも疑問だったりする
だからといって「最もひどく差別されているのは潜在犯だから、それと比べたら入国者の差別なんか大したことない」と言うのは差別問題を扱う上で認められない論理だと思いますけど

宜野座は人間関係を複雑にしてストーリーに深みを与える役割だったからメインストーリーからは蚊帳の外だけど、作中の世界観における差別構造およびシビュラの公平性の象徴として完成度がとても高い
そのせいで一人だけ生い立ちがはっきりしてる 狡噛や朱の家族関係は全然描写されなかったしね

狡噛が母子家庭にもかかわらず何ひとつ不自由していないのはシビュラ(高福祉社会)の利点としてもうちょっと描写があってもよかったのではないかと思う

メインテーマは自己決定権を放棄してシビュラの神託に依存していることをもってディストピアと扱っているけど、真に公平な高福祉社会で教育の機会も平等だと、社会的地位の高い職業の適性が出ないことの責任が社会構造のせいにできず、すべて個人の資質に帰される この点においてシビュラ社会は地獄

現実の移民には人種によってランクがあるが、
①シビュラが入国者に平等に同化政策を施すならホワイトカラーを白人に代表させるべきではない
多種多様な顔ぶれにする方が公平さを視覚的にアピールできる
(白人しかいないと平等・公平という設定と視覚的印象が矛盾し、作り手の差別意識の発露に見える)
②実はシビュラ社会でも白人が階級の上位に来るならば、作中で入国者間に発生する人種差別に無批判であるべきではない
(そもそも北米や欧州の国々はとっくの昔から白人しか居住していないわけではないんだけど、そのあたりも意識の外っぽい)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

inserted by FC2 system