1

 月曜日

 波多野はロンドン市内のカフェにいた。煙草を吸いながら街並みを観察する。行き交う人ごみはいつも通りだ。
 ドイツ空軍に大空襲を受けてから十年ほどで、町並みはすっかり回復を遂げている。
 昼近くなので、カフェはそれなりに混んでいた。
 またひとり、客が波多野の近くに腰を下ろした。片手には新聞を持っている。昼休みといったところだろう。
 波多野は店を背にして、屋外のテーブルに座っていた。注文したのはコーヒーとサンドイッチ。ありふれたメニューだ。
 エマの通うパブリック・スクールは、ロンドンから車で三十分ほどの場所にある。
 昨日、エマが誘拐されたという知らせが届き、波多野、実井、福本は本来の任務の合間に事件を調べていた。
 田崎が探りを入れたところ、学校側には偽の連絡が届いており、家庭の都合で一週間の休暇を取ったことになっていた。
 もちろん、養父である甘利からは何も聞いていない。そもそも甘利は今、英国にいないのだ。甘利はたしか、偽装の貿易関係の仕事として、欧州本土に行っていたはすだ。エマにも当分会っていない。
 昨日のうちに甘利には連絡を入れたので、数日中に英国へ戻ってくるだろう。それまでに誘拐事件を解決しておかないとうるさそうだ。すっかり子煩悩になった甘利がスパイらしくなく騒ぎ立てる様子が目に浮かんで、波多野はため息をつきそうになった。
 田崎が探っていた英国諜報部のひとりが姿を消している。そして、誘拐現場近くでの目撃証言。状況から見れば、エマの誘拐に一枚噛んでいるとしか思えない。しかし、あのMI5が人ひとりを誘拐するなんて目立つことをするだろうか。
 甘利が日本のスパイだと疑っているなら、まずイギリスに居住するエマの周辺を探るべきだ。それからエマの養父、甘利の周辺調査。波多野たちの存在に気づけば、そして情報を日本へ流している証拠をつかめば、甘利がスパイだと確信を得られるだろう。
 それとも、既に気づかれているのか?
 それにしては、波多野たちを監視する目を感じない。人と会った後はそれとなく確認しているが、尾行されている様子も現状では見られない。
 田崎も不審に思い、諜報部の監視を続けている。続報があれば、また鳩が届けてくれるだろう。
 別行動中の実井と福本は、ワトキンソンとMI6が接触する予定の日時、場所を探りに行っている。国内で調査していた神永、佐久間、飛崎から結果を受け取っているので、それほど苦労しないだろう。余った時間で、エマの行方を捜索する手はずだ。
 波多野の分担は、田崎と共に英国におけるスパイ網の構築、および協力者からの情報収集だった。
 先ほど、波多野の前に座った男性が新聞を広げた。
 広げられた新聞の、あらかじめ決められたページの隅が折られていることを確認する。次に、新聞がめくられるごとに見出しの最初の文字を読む。それらをつなぎ合わせて文章とする。
 男性は新聞のページをめくったり、前のページに戻ったりしている。
 ――対日路線は変化なし。
 やはり、エマの件は無関係か。
 ロンドンにいる政府関係者を、情報提供者に仕立てて内部情報を得る――それが、英国へ派遣された波多野たちの役割のひとつだった。
 ――今回の任務は、ワトキンソンの確保だけではない。
 日本の機密文書を取り戻すだけなら、わざわざ英国で捕まえる必要はない。逃げる過程で情報を流されるおそれがあるからだ。
 だが、英国とソ連の二重スパイを日本国内で捕らえるとなると、非常に面倒なことになる。ただでさえ、日本の再軍備をめぐって、極東委員会が内輪もめの様態を呈しているのだ。日本国内での二重スパイの逮捕など、緊張状態にある諸外国との関係を複雑化させる要因になるだけである。
 だから、ワトキンソンをわざと英国へ逃亡させ、機密文書を回収した後に英国側に引き渡すという手段を取った。英国諜報部もワトキンソンを怪しみ、監視している。頃合いを見計らって英国側に身柄を確保させればいい。彼らも身内の恥を世界にさらしたくはないだろう。
 機密文書の漏洩を防いだ手柄はD機関が得るが、スパイの後処理は英国側に投げる。
 その成果として、D機関の復活を認めさせる。それを見越して、今後のD機関の活動のために英国でスパイ網を構築することも、今回の任務のうちだった。
 それぞれがエマのもとを訪れた際に政府や軍関係者、あるいはそれらへ影響力を持つ人物との接触を図ってきたが、それをスパイ網として整理し機能させる。
 結城中佐は明確に口にすることはなかったが、おそらくそういった意図も含めての任務だろう。情報を得る手段は、多いに越したことはない。
 そして、もうひとつの意図がある。
 少なくとも、波多野にはそう思えた。あの〝魔王〟と恐れられた結城中佐がそんなことを配慮するとは考えにくいが、どう考えてもその結論にたどりつくのだ。
 すなわち、事実上の〝休暇〟。
 D機関第一期生が総出で任務にあたる必要性は、それほど高くない。たしかに外交上の困難はあるが、たかがひとりのスパイ、しかもその価値を失いつつあるスパイにそれほど人手を割く必要はないだろう。副次的な目的としてスパイ網の構築もあるが、複数人で英国に行けば、かえって目立ってしまう危険性もある。英国では黄色人種はまだ少ない。完璧なクイーンズ・イングリッシュを身に着け、身振りも現地に合わせたところで、骨格までは変えられない。注目を浴びるのは、スパイにとって何より避けたいことだ。
 にもかかわらず、結城中佐はわざわざ日本国内にいる第一期生を集めた。いかなる手段を持ってか、佐久間と飛崎さえも呼び出した。そして全員に同じ任務を割り振った――。
 英国に行けばエマに会えるのはもちろんだが、もうひとり、欧州には長らく会っていない人がいる。
 結城中佐が〝彼〟のことを念頭に置いていたとすると、らしくない行動だ。
 それでも、波多野はその可能性を信じたいと思った。
 ――〝魔王〟にも、血の通った心がひとかけらでも存在しているのではないか、と。

 前の席の男は新聞を畳み、食事を始めた。
 ――片が付いたら、ベルリンに行こう。
 ドイツは東と西に分離し、独立している。背後では米国とソ連がにらみ合っている。世界中で代理戦争を起こしているが、この二国が正面切って戦争をすることはないだろう。鉄のカーテンで分断された欧州事情を把握するのも、これからの活動を思えば有意義になる。
 そう理由をつけて、波多野は煙草を灰皿に押し付けてもみ消し、席を立った。
 スパイは何事にもとらわれてはならない。
 ここにいるのは、英国へ出張として渡った商社勤務の日本人。朝鮮特需に乗じて手を広げようとしている、日本では数多ある商社のひとつ。パスポートに記載されている、現在使っている名前も〝波多野〟ではない。
 けれど、ほんの一瞬。ドイツで任務中に死んだ同期の顔が脳裏をよぎったことを、結城中佐は許してくれるだろうか。

     2

 飛崎は船の上にいた。よく晴れて波もなく、穏やかな海だ。
 乗っているのは英国行きの客船。同じ船にはワトキンソンが乗っている。
 目的地・ロンドン港までは約一カ月の旅だ。香港で乗り換えてハワイ、パナマ運河を経由して米国から大西洋を渡っていく。
 カモメが頭の上を飛んでいった。その影が、ちょうど飛崎を通り過ぎる。
 ワトキンソンは自室に閉じこもって出てこない。途中で立ち寄る港でも、あまり外出しない。ワトキンソンには自分が疑われている自覚がある。同じ船に英国諜報部の監視が同乗していることを恐れているのだろう。とにかく、無事に情報を持ち帰ってソ連の二重スパイである疑いを晴らしたがっているはずだ。
 飛崎は海を見つめた。光がきらきらと反射してまぶしい。
 遠くに島影が見えてきた。
 もうすぐ英国に到着する。甘利が任務中に拾った子どもがいる国だ。飛崎は一度も会ったことがない。それどころか、その存在を聞かされたのもつい最近だ。
 甘利は子どもを拾って、D機関を離脱した。しかしその後も、情報収集はしていたらしい。個別に結城中佐へ情報を流していたのだろう。
 他の一期生は、甘利の子どものことを知っていたようだった。知っているどころか、暇を見つけては会いに行っているらしい。
 ――どんな子どもなんだろう。
 彼女が戦後、甘利と共に英国へ移住した、ということくらいしか聞かされていない。
〝小田切〟がD機関を離れた後の出来事だ。三好もおそらく会っていないだろう。ただ、写真だけは見たことがあるらしく、将来は有望だ、と甘利がいなくなった途端、周囲に話していたらしい。その話をする神永が、懐かしむような顔をしていた。
 ――面と向かってほめようとしないなんて、三好らしい。
 飛崎が十数年ぶりに再会したD機関は、歯車が欠け落ちたような印象を覚えた。かつて八人いたD機関第一期生はその数を減らし、会えたのは五人だけだ。
 もともとそれほど人数が多かったわけではない。しかし、自分もそのひとりだったことを差し引いても、五人というのはいささか少ないような気がした。
 結城〝中佐〟に呼び戻され、そこで欠けた人数を知った。甘利が離脱したことを、そして、永遠に欠けた彼の末路を知った。
 三好が任務中に死んだことは、にわかには信じがたかった。ただ漠然と、彼らは任務をこなしているのだと思っていた。
 スパイ活動には常に危険が伴う。それを忘れたわけではない。それでも、〝化け物〟だった彼らなら、平気な顔をしてこなしているだろうと、どこかで信じていた。あの自負心の塊のような彼らなら、涼しい顔で困難な任務もこなしてみせるだろう、と。
 別れも告げずに大東亜文化協会から去ったあの日で、飛崎の中のD機関は時間を止めている。風の便りに、D機関と思しき人物の工作を伝え聞くだけだった。
「……俺は、貴様らのようにはなれなかったよ」
 羨望も嫉妬もなかった。ただ、揺るがぬ事実があるだけだ――飛崎は、唯一の心の拠り所を捨て去った〝化け物〟にはなれなかった。
 ――三好は死ぬ瞬間、何を思っていたのだろう。
 飛崎がついぞたどり着くことのなかった境地。
 真っ暗な孤独の中で死んだ三好。全くの別人として死んだ三好。今までの経歴は抹消されているはずだ。墓にさえも、本名が記されることはない。彼にいたはずの親族も、知り合いも、誰も真相を知らないのだ。
 それはいったい、どれほどの孤独なのだろう。
 その孤独に耐えられるのは、やはり〝化け物〟でなければならなかっただろう。飛崎はかつて、それに耐えられると思っていた。結城中佐もそう感じたからこそ、飛崎をD機関へ勧誘したのだろう。結局、飛崎はそうなれなかった。
 ふと、三好に会いたいと思った。
 そのためにも、任務を果たさなければならない。

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