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 一カ月前、東京

「ソ連との二重スパイねえ」
 神永は頬杖をついて、つまらなさそうに呟いた。
 ワトキンソンの件に関する調査結果の報告会だった。
 結城中佐は席をはずしている。結城中佐が陰でどんな行動をしているのかは、誰も把握していない。
 飛崎は、神永の態度を意に介さずに報告を続けた。
「ワトキンソンは英国の上流階級出身。家庭内では横暴だった父親との折り合いが悪く、学生時代には共産主義にかぶれていた。おそらくこの時期にソ連からのスパイと接触し、ソ連へ情報提供を始めたと考えられる」
 資料は見ない。すべて頭の中に入っている。
 国内で任務にあたることになった飛崎は、ワトキンソンの周辺を探っていた。といっても〝標的〟の職場へ潜入捜査をしていたわけではない。ごく普通に、職を失った軍人としてGHQ本部近くの郵便局で働き始めたのだった。
 飛崎は、戦後、満州から復員して実家に戻ったが、特需に合わせて上京したことになっている。ほとんどそのままの経歴を使って、ワトキンソンの調査を行った。これなら、標的に怪しまれたところで露見する正体もない。
 ワトキンソンの務める商社は、GHQの職員たちを相手にしている。異国の地に赴任した彼らのために、祖国からさまざまな品物を仕入れている。その営業活動の過程では、当然、GHQの高官と接触する機会も多いだろう。GHQやその支配下にある日本政府の内情を知るには、もってこいの職業だ。
 郵便局の職員をしながら、それとなくワトキンソンの様子を探り、郵便物を確認する。跡を残さずに開封する技術を、久しぶりに使った。
 そうして数週間、張り込んだところで出した結論だった。
 ――ワトキンソンは日本の機密文書を盗み出したソ連との二重スパイである、と。
 ワトキンソンはイギリスから派遣されたMI6所属のスパイだった。それはすぐに判明した。結城中佐のもとに持ち込まれた時点で、ワトキンソンはMI6のスパイではないかと疑われていたのだ。別行動をしている二期生以降のD機関員によるものだろう。
 彼がスパイであるという確証を得るのに、さほど時間はかからなかった。ワトキンソンの任務は、極東地域におけるソ連の動向の監視だろうと思われた。当初、自国の再建で余裕のない日本側は見逃すことにしていた。
 しかし、監視の中、ある事実が判明した。なぜかワトキンソンには英国からの監視がついていたのだ。自国のスパイに対して監視をつけるなど、不自然極まりない。
考えられる可能性は、ワトキンソンが裏切り者であること。
 事実、ワトキンソンの盗み出した機密文書は、日本の再軍備に関する情報だった。日本を再軍備したがっているのは米国だ。この情報を欲しがるのは、ソ連以外にない。
 神永も別ルートでワトキンソンを調査していたが、同じ結論に達した。GHQの事務員をしているご婦人に近づいて内情を探っていたらしいが、飛崎も詳しいことはわからない。互いの仕事に口を出さないのが礼儀だ。
「なぜ、ワトキンソンはわざわざ日本へ?」
 佐久間が手元の資料に目を落として尋ねる。
 紙の資料は、佐久間のために用意されたものだ。D機関では、紙の資料はほとんど用いられない。用いられてもすぐに返却する決まりだった。
 そもそも、今回の任務の発端は佐久間だった。どうやってか警察予備隊に入隊した佐久間(結城中佐が背後で手を回したらしいが、詳しいことを考えるのはやめた)が、この情報の提供源である。正確には、佐久間を中継した日本政府のさる高官からD機関への〝依頼〟だった。
 東京裁判を回避した結城中佐の取引相手だと思われるが、つついたら何が出るかわからないので、深く考えないようにしている。
 実井が意味ありげに結城中佐と視線を交わしていたので、彼も関係あるのかもしれない。
 ――そんなことよりも、目の前の任務に集中しなくては。
 飛崎は首を振って雑念を振り払い、田崎から送られてきた電報を佐久間に差し出した。もちろん電報は暗号で送られているが、佐久間に渡したのは解読したものである。田崎の打ち癖に、一定の割合で入る打ち間違い。間違いなく本人からのものだ。
 この情報が決定打となった。
 ワトキンソンは裕福な家庭に生まれたが、父親とは不仲。反ファシズム、共産主義思想が流行った三十年代にケンブリッジに入学し、マルクス主義の経済学教授と出会っている。
 資料に記されているのは、英国商社の社員〝ワトキンソン〟のものではなく、MI6の職員としての顔だ。
 ワトキンソンは優秀な二重スパイだった。優秀すぎたために、皮肉にもソ連側から英国の二重スパイではないかと疑われたらしい。それほどまでに英国側の信用を得ていたが、戦後、ある事件が発生した。ソ連の諜報組織から英国へ亡命者が出たのだ。
 彼が暴露した情報から、ワトキンソンがソ連との二重スパイである可能性が浮上した。MI6はワトキンソンに日本行きを命じた。遠く離れた極東の地へ追いやる――厄介払いであると同時に、米ソの対立する日本でどう行動するかを監視するためだったのだろう。日本でなら、何をしても英国への影響は少ないと考えたのかもしれない。
「ワトキンソンは、自分が疑われているのを承知しています。しかし、それを利用してソ連側への二重スパイをMI6に申し出たのでしょう。日本の情報を手土産に」
 神永はちらりと佐久間を見やって言った。
「本当はMI6に潜入した二重スパイなのに、ソ連側へ潜入する二重スパイになるとMI6に申し出たのか?」
「ええ」
「なんだかややこしいな」
 佐久間が顔をしかめた。
「折りしも、極東地域は混乱状態にあります。日本の再軍備をめぐって、米ソの対立は激しさを増している――これを機に、日本の機密を盗んで自分の疑いを晴らす気でしょうね」
「しかし機密と言っても、GHQにはソ連もいたはずだが」
「反対するに決まっていますからね。警察予備隊を組織しただけでひどい反応でしたし。米国はソ連には内密に、事を進めるつもりだったでしょう」
 それで、再軍備をめぐる機密情報を盗んだというわけだった。疑われている状況を利用し、それを晴らすための手段だった。
 だが、疑われたスパイには何の価値もない。一度疑われたら、信頼を回復するのは非常に困難だ。相手は名だたる英国諜報部、そう簡単に、見逃してくれるはずもない。
 MI6は、ワトキンソンへ疑いのまなざしを向けたままだろう。ワトキンソンが帰国したところで、監視の目が離れるとは限らない。
「そのままソ連に亡命すればいいんじゃないのか?」
「ソ連に渡ってしまえば、失敗を認めたも同然ですからね。二度とMI6で二重スパイとして活動することはできない。それどころか、スパイとしての活動は今後一切できないでしょう。スパイとしての価値はもはや存在しない」
「無事に亡命できる保証もないですし」
 飛崎が付け加える。
 単にワトキンソンのプライドの問題だけでもない。
 ソ連側がイギリスから亡命するワトキンソンを受け入れてくれる保証はないのだ。ソ連では二十年ほど前、スターリンによる大粛清が行われた。ソ連諜報機関のNKVDもその対象となった。国外に出ていたスパイたちは二重スパイだと糾弾され、処刑された。
 スターリンはいまだ健在だ。任務に失敗したワトキンソンも処刑される可能性がある。どちらにも逃げられない――ワトキンソンは追い詰められている。
 追い詰められて視野の狭まった彼が取った選択とは、英国からソ連への二重スパイとして疑いを晴らすことだった。
「……つまり、彼はスパイであり続けるしかない、と」
 しかしそれは、ソ連側からも疑われる可能性の大きい賭けだ。二重スパイが英国側へ寝返ったのではないか――ワトキンソンはMI6からの疑いを晴らせても、今度はソ連側から疑われることになる。
 飛崎の言葉を、神永は鼻で笑った。
「疑われたスパイはもはやスパイじゃない。そんなことにさえ気づかず潮時を判断できないなら、こいつは失格だ」
 嘲るような調子の含まれた神永の言葉に、部屋の温度が下がった気がした。
 正体が露見しそうになったくらいで冷静さを失っていては、スパイではいられない。目的地である日本やその途上で姿をくらませることも可能だったかもしれないのに、MI6所属のスパイとして英国へ戻る選択を取った。それは、スパイであることにとらわれているからではないのか。
 何かにとらわれたら、スパイとして失格になる。
 小田切――飛崎に対しては痛烈な皮肉だ。飛崎は、第一期生の中で唯一〝卒業試験〟で不合格になり、D機関から転属になった。
 その時を思い起こさせるような意地の悪い表情で、神永は飛崎に顔を向けた。
「……俺は、貴様らのような化け物にはなれなかった。それでよかったと思っている」
「へえ」
 飛崎はそれきり口をつぐんだ。
 神永も何も言わない。
 重い沈黙を破るように、佐久間が咳払いした。
 神永は飛崎から視線をはずした。張りつめた空気も霧散する。
「国内の共産主義者の動向は?」
 何事もなかったように、神永は問いかけた。
「何人か不自然な動きを見せている。ワトキンソンと接触したのかもしれない」
 答えたのは佐久間だ。警察予備隊の中で、怪しいとにらんだ人物の監視をしている。一人で日本の機密を盗み出したとは考えにくい。必ず、国内に協力者がいる。
「これからの分担を決めましょう」
 神永は資料をのぞきこみながら言った。
「ワトキンソンの追跡と国内での調査、二手に分かれるのがいいですね」
「ワトキンソンとMI6の接触場所はいくつか絞り込んであるから、実井たちに確認させては?」
「そうだな」
 話を進めながらも何か言いたげな佐久間の顔を極力見ないようにしながら、飛崎も平然とした顔をつくろった。

 分担を決めた結果、ワトキンソンと同じ船に乗るのは飛崎、日本国内の協力者を逮捕するのは佐久間と神永になった。神永は顔が割れているため、泣く泣く英国行きを諦めた。
 神永の悔しそうな顔も、本気だったかどうか怪しい。甘利の娘に会いたいと言ったのも、本心だったか判断しかねた。飛崎はかつて彼らと同じ時間を過ごし、同じ訓練を受けたが、彼らの本心は何ひとつ知らないのだ。
「――飛崎准佐か、俺より出世しているな」
「佐久間さんまでやめてくださいよ」
 飛崎は苦笑いした。
「貴様がD機関にいたとは思わなかったぞ」
「いつ気づかれるかとひやひやしていたのに、佐久間さん、全然気づかないものですから」
「俺にわかるわけないだろう」
 佐久間と飛崎は同じ陸軍士官学校を卒業した仲だ。飛崎のほうがいくつか年下である。
 飛崎は陸軍士官学校を卒業して少尉着任直後に事件を起こし、結城中佐に勧誘された。D機関の入学試験を受けに行くと、陸軍参謀本部から派遣された佐久間中尉がいた。
 当時、小田切――飛崎がいることに、佐久間は全く気づいた様子はなかった。ほとんど同じ顔をしていても、印象を変えて別人に成りすますのは、D機関の入学試験を突破し、訓練を受けた者なら当然の技術だ。
 事実、佐久間は再会した第一期生の顔を覚えていないようだった。さりげなく皆が佐久間の前で名前を呼び合い、ようやく顔を認識できたくらいだ。
「それしても、神永のあの態度はなんだ」
「神永だって、別に俺のことを嫌っているわけじゃあないですよ」
「しかし、あの言い方は――」
「そういうものです、D機関は。仲良しの友達じゃありませんから」
 お国のために命を捧げると誓い合い、互いのためなら命を投げ出しても構わないというような、陸軍士官学校とはわけが違う。血を分けた兄弟のような関係になるはずもない。
 互いの素性も一切わからず、聞かれたらすぐさま偽の経歴を答える――馴れ合うこともなく、一定の距離を保ったまま共同生活を送った。とても、一般的な学友ではない。
〝卒業試験〟で不合格だった小田切は、飛崎中尉として関東軍に配属された。最前線への配属――口封じがわりだ。昇進させて死に場所を与える、陸軍の残酷な思いやり。しかし、幸運か悪運か、飛崎は生き残った。
 戦場でいつ死ぬかと思いながらも、終戦まで生き抜いた。
 同じく満州に渡った野上百合子の活躍を直接見ることはかなわなかったが、それでよかったかもしれない。〝ちづネェ〟と野上百合子は別人だ。いくら顔が似ていようとも、れっきとした他人。野上百合子に近づいたところで、〝ちづネェ〟を取り戻せるわけではない。
 終戦後はなんとか満州から復員し、それから田舎の実家に戻った。
 日本軍は解体され、軍人には戻れない。公職追放によって就ける職業は限られている。両親もおらず、祖父母とは親しくない。やたらと広い家に、実家という感覚はなかった。
 やるべきことを見失って、近所の農家で手伝いをしていた。
 そんな折、結城中佐から手紙が届いたのだ。
 もちろん、暗号を用いた手紙だった。内容は、D機関第一期生の再招集。
 もう長いこと触れていなかった暗号を、記憶を頼りに解読した飛崎は、一も二もなく東京行きの列車に飛び乗った。そうして、五人の〝化け物〟と再会した。
 不思議な気分だった。
 スパイをやめた飛崎が、彼らと共に任務に就く。運命の悪戯だろうか。一生会うことはないと思っていたのだが。
 奇妙な縁に、飛崎は少し笑った。
「まあでも、小田切だった俺も、俺でしたよ」
「変わったな」
「そうでしょうか」
「ああ。貴様は変わった」
「変わったのは、佐久間さんもですよ」
「そうかな」
「ええ、そうですよ」
 D機関での経験は二年にも満たない。けれど、人生の転換点だったことは間違いない。飛崎にとっても、佐久間にとっても。
「――なんだか、もう十年も経ったのが信じられないくらいです」
「これからまた忙しくなるぞ、飛崎准佐」
「だからやめてくださいって」
 ひとしきり笑い合って、飛崎は佐久間と別れた。
 船の手配をしなければならない。他にも、準備や根回しが必要だ。やるべきことは山積みだが、気分が高揚していた。
 D機関にいたのは、飛崎の人生の中では短い時間だった。陸軍幼年学校、士官学校で過ごした時間のほうがはるかに長かった。D機関にいたときは、互いの心の内をさらけ出すこともなかった。常に偽の名前、経歴を皮膚のようにまとって接していた。それでも、再会した時には、旧知の友に会ったような懐かしさを覚えた。
 部屋を出る際、神永がすれ違いざまに耳元でささやいた言葉がよみがえった。
 ――貴様がスパイを続けていたら、こうして会うこともなかっただろうな。
 佐久間には話していない。彼は神永の辛辣な態度に怒りを覚え、〝かわいい後輩〟の飛崎に同情している。しばらくは勘違いさせたままにしておきたい。ちょっとした意趣返しだ。これくらいなら許されるだろう。
 あの時、神永はかすかに口角を上げていた。そこにあった感情は何だったのだろう。
 願わくば、彼らも同じ気持ちであってほしい――なんて思った。

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