3

 同時刻、客船の甲板

 朝早く、甘利はロンドン行きの客船に乗っていた。
 田崎からの電報を受け取って、慌てて船に飛び乗ったのだ。
 仕事の関係で、甘利はフランスに滞在していた。長らくこの職に就いているため、まるっきり偽の経歴とも呼べなくなってきた。
 船の甲板から海面を眺めていると、初めてエマに会ったときのことを思い出した。
 まだ幼かったエマ――母親に抱き上げられていたエマが、ずいぶん昔のように感じる。イルカを呼び寄せると、無邪気に喜んでいたのが懐かしい。
 小さかったエマはすっかり成長し、今は思春期まっただ中だ。大人びていく顔に、時折、エマの死んだ母親の面影が重なり、時間の流れを感じる。
 一般的な父娘と比べると、父親である甘利との関係は極めて良好だった。毎週のように手紙をやり取りし、他愛もない内容を伝えてくれる。ほほえましい学園生活の様子に、ひとり相好を崩していた。
 そんな日が続けばいい、とも思う。だが、そうはいかない。甘利はただの変な日本人ではない。D機関で諜報員として訓練を受け、今でも情報を集め続けている。
 迷う時がある。本来の仕事を続けるか否か――いつまで母親の死の真相を、甘利の職業を隠しておけるのか。
 覚悟を決める時が来ている。
 今回の件は、まさしくそれだった。
 ――スパイであることが露見しかけているかもしれない。
 田崎からの知らせにはそう書かれていた。
 だとすれば、こうして英国へ、エマのもとへ向かうのは得策ではないだろう。楽観的に考えれば、向こうも確定した情報ではないため、実際にはそれほど強く疑われているわけではないかもしれない。
 しかし、今ごまかせたところで、この先どこから嗅ぎつけられるかわかったものではない。一度疑われてしまえば、英国諜報部のマークをはずすのは時間がかかる。
 それでも、エマのそばに向かいたかった。たとえ、そのせいでエマが甘利の本当の職業を知ることになろうとも。
 ――これが、世間一般の親の心理か。
 甘利は内心、苦笑した。もうずいぶんとエマにとらわれているのかもしれない。
 遠くに白い崖が見える。アルビオン――かつてイングランドがそう呼ばれていた由来となった、白亜の崖。ドーヴァー海峡を渡るときに必ず目にする地層だ。
 水面をかき分ける船の舳先が、白く波を立てる。
 エマとは頻繁に手紙のやり取りをしているが、もう数カ月は会っていない。
 ――娘の窮地に駆けつけないで、父親を名乗れるものか。
 そう思っても、父親になりきれない。甘利がエマを引き取ったのは、任務のためだった。決して、両親を失ったエマを憐れんでのことではない。
 父親であることを優先するのは、スパイ失格だ。
 だから、これはエマのためではない。英国人の少女を養子にとった甘利の、現在の立場を守るために行くのだ。今後の仕事を進めるための、スパイ活動の一環だ。
 どこか言い訳がましく聞こえるのは、意識しないようにした。

     4

 火曜日

 わたしは寮の部屋にいた。こっそりと寮に戻って一夜を明かしたのだ。もちろん、寮監の目をかいくぐって、だ。
 アリスとデイジーはあくびをしながら授業に出席した。休んだら怪しまれてしまう。仮病を使ってもいいけれど、それだとわたしが部屋に戻ってきたことに気づかれるかもしれない。
 だから今、わたしはひとりで寮の部屋にいた。授業時間中は誰も寮にいないので、見つからないように隠れているのは案外、簡単だった。
 わたしはあえて、寮監に戻ってきたことを言わなかった。
 アリスとデイジーから聞いたところでは、学校側にはわたしが家庭の都合で一週間休むことになっているらしい。
 あの男が言っていたことは本当だったのだ。わたしのふりをして休暇届をだし、どう根回ししたのかそれを先生たちに信じ込ませた。
 わたしが寮に戻ったことを先生に伝えたら、居場所がばれてしまう。それは避けたかった。
 授業を欠席し(サボタージュはとてもわくわくした)、わたしは今後の予定を考えた。
 あの主犯と思われる男はどこにいるのか。あの男がわたしの手鏡を持って行ってしまったのだ。居場所を突き止めて乗り込むべきか?
 手がかりは、わたしが監禁されていたあの家しかない。
 歩いていくには少し遠い。アリスとデイジーは次の日も授業があるから、すぐに戻ってこないといけない。わたしは学校にいないことになっているけれど、あのふたりは連絡もなしに休んだら大騒ぎになってしまう。
 できれば昨日のように車がほしい。バスの走っている時間ではないし、タクシーでは人目についてしまう。
 でも、わたしは車の運転ができない。アリスとデイジーもそうだ。
 リチャードはどういうわけか運転の技術を身に着けていたけれど、あれは普通ではない。そもそもリチャードがあの車をどうやって手に入れたのかもわからない。それも少し、気がかりだ。
 昨日、なぜリチャードも一緒にいたのか、アリスとデイジーからまだ聞いていない。二人とも眠そうだったから、寮に帰ってひとまず寝たのだ。
 そして、二人はいつも通りに授業に出ている。説明を聞く暇はなかった。
 授業が終わるまでには時間がある。
 二人から話を聞くのもいいけれど、リチャードと直接話をつけたい。できれば、車の運転もしてほしい。
 いざとなったら勝負を決めるしかない、とわたしは準備を始めた。

 そういうわけで、夕方、リチャードを体育館に呼び出した。
 鍵はアリスが入手してきた。スポーツの練習をしたいとかなんとか、理由をつけてきたらしい。普段は優等生のアリスの頼みなら、たいていの先生は大目に見てくれる。
 本当は話し合いだけで解決したいけれど、リチャードが素直に協力してくれるとは限らない。その時のための準備もしてある。
 体育館に入ってきたリチャードは、ひどく緊張していた。三人が待ち構えているのを目にすると、落ち着きなくあたりを見回す。わたしと視線を合わせようとしない。
「そんなに怖がらないでよ、ちょっと話をしたいだけなんだから」
「いや、あの、僕は……」
「まず」
 と、わたしはリチャードの話をさえぎった。
「昨日はありがとう。車の運転ができるなんて知らなかったわ」
「う、うん」
「でも、なんであそこにいたの?」
「それは、その……」
「わたしが連れて行ったのよ」
 デイジーが代わりに答えた。
 リチャードがほっとしたように息を吐いた。
 デイジーとリチャードは、親が親しいので小さい頃からそれなりに付き合いがある。学校以外でも話す機会はあるのかもしれない。
「リチャードは休暇で家に帰ると、お父さんの車で遊んでいるから。それで運転ができるのよ」
 意外だった。あまり体格の良くないリチャードが、そんな活動的な趣味を持っていたなんて。運動が得意そうではなく、本ばかり読んでそうな外見をしているのに。
 人は見かけによらないものだ。
「それはわからないでもないけど……車はどこから?」
 決心したように、リチャードは顔をあげてわたしをまっすぐ見据えた。
「二人だけで話したいんだけど」
 わたしはアリスとデイジーを見た。
 二人はうなずき、体育館を出た。
「父の知り合いの人から借りたんだ」
 そして、リチャードはとつとつと話し始めた。
「デイジーから聞いたんだ、エマが日本製の鏡を持っているって。その時は、ただ珍しいと思っただけだったよ。でもある日、父が仕事の話をしているのを聞いたんだ。日本には優秀なスパイがいるって。世界大戦中、イギリスを出し抜いたことがあるくらい優秀で、今になって活動を再開したって言ってたんだ」
「それで、なんとなく君のことが思い浮かんだんだ。それを父に話したら、一度君のお父さんのことを調べようって言い出して……君のお父さんがスパイなんじゃないかって、そんなことまで……諜報部に相談するって言われて、それであの男の人が来たんだ……」
「僕は正直に話したよ、何もかも。誓って、君を疑うようなことは言わなかった。けど、向こうはそうじゃなかった……そんなつもりじゃなかったんだ、ただ、君が日本の手鏡を持っていたことを話しただけだったんだ……」
 リチャードは話し疲れたように、言葉を切った。
「ふうん……」
「君には、申し訳ないことをしたと思っている。本当にごめん」
「申し訳ないって思っているなら、わたしに何かしてくれるっていうの?」
 リチャードは目をさまよわせた。少し言い方がきつかったかもしれないけれど、そんなものを気にする必要はない。だって、わたしは誘拐までされたんだもの。
 それに、これはチャンスだった。わたしに対して負い目を感じているなら、ひとつくらい頼みを聞いてくれるはずだ。
「わたし、もう一度あの場所に行きたいの。わたしの大切な手鏡を持っていかれてしまったままだから」
「……ごめん……」
「それでね、ちょっと遠いから、車で行きたいのよ」
 うつむいていたリチャードが顔を上げた。
「でも、僕は……」
 まだためらうリチャードに、わたしはいよいよ決心した。
「勝負しましょう。勝ったらわたしに協力すること。種目は――フェンシングでいいわよね」
 リチャードがこわばった顔でわたしを見た。
 わたしはにっこり笑い返した。

 結果は、もちろんわたしの勝利だった。
 話が終わったからと呼び入れたアリスとデイジーが拍手した。
 リチャードは打ちひしがれた表情で座り込んでいる。見かねたデイジーが近寄り、何か励ましている。
 リチャードはわたしとあまり体格が変わらない。体格が互角なら、たいていの人には負けない自信がある。
 女子で一位を取ったわたしに勝とうだなんて、気が早い。鳩のおじさんには、今とても感謝している。
「約束よ。車の運転、頼んだわよ」
「わかったよ……」
 観戦していたアリスが駆け寄ってきた。デイジーはゆっくり歩いてくる。
 二人とハイタッチを交わして、わたしは思わず笑い声をあげた。
 なんだか楽しくなってきた。昨日誘拐されたのが嘘のようだ。それとも、無事に逃げられた安心感から来る反動かもしれない。
「それじゃ、三銃士の結成ね」
 わたしの言葉に、アリスが頬を上気させながらうなずいた。
「四人いるわよ」
「リチャードは非戦闘員だもの。車の運転くらいで勘弁してあげるわ」
 デイジーが冷静に突っ込んできたから、わたしも真面目くさった顔をして返した。
 おとなしい性格のリチャードに、そんな無理をさせるのはかわいそうだろう。というより、デイジーは心配になって気もそぞろになるに違いない。
 わたしはフルーレを掲げた。
「ひとりはみんなのために」
「みんなはひとりのために」
 アリスがしまってあった予備のフルーレを引っ張り出した。
 しょうがないな、と言わんばかりの顔で、デイジーもフルーレを掲げた。
「ところで、いつ出発するの?」
「それはもちろん――」
 嫌な予感がするといったように、デイジーが眉間にしわを寄せた。
「――今からよ」
 もはや止めることもやめたデイジーがため息をついた。
 デイジーもなんだかんだ言って結局ついてくるのだから、本当は楽しんでいるはず。
 スリルと冒険の好きなアリスは言うに及ばず。
 リチャードはかわいそうなくらい青ざめていた。
 でも、そんなのは関係ない。だって、今の状況はリチャードのせいなのだから。
「こういうのは、勢いが大事でしょ」
 根拠もなく、何だってできるような気がした。

     5

 月曜日、日中

 田崎は息をひそめ、ようやく突き止めた〝拠点〟の近くにいた。
 そっとうかがうのは、静かな住宅街にたたずむ一軒の家。傍目からは何もおかしな点はない。カーテンは閉め切られ、駐車場に車はない。住人が留守にしているだけだ。
 しかし、そこに少女が監禁されているのを、彼だけが知っている。
 ――貴様が少しだけ、うらやましかったよ、三好。
 彼は心のうちでそっとつぶやいた。
 労力をかけて手に入れた情報が活用されずに捨てられてしまうのは、悲しみとも空しさともつかない何かを感じた。
 何事にもとらわれてはならないスパイには、あってはならないことだった。
 自分の入手した情報に、必要以上に思い入れを持っている。
 そうだと認識していても、十数年前のあの時の、三好がうらやましかった。
 終戦後、散り散りになった彼らは互いに連絡を取り合い、消息を突き止めた。そこで、三好の死を知った。死んだ状況も、調査して明らかにした。
 その死にざまに、衝撃を覚えたのだった。
 ――情報は、使うほうが難しい。
 そう思ったのは、満鉄特急〈あじあ〉での任務を終えた時だった。スパイのひとりにすぎない田崎には、やれるだけのことをやるしかなかった。
 あの時、伝書鳩が運んだ田崎の情報は、活用されただろうか。
 その任務が、小さなささくれのように心の奥底に突き刺さっている。ずいぶん経った今になって、うっかり指で引っかいてしまったように、ちくちくと痛みがぶり返す。
 三好の残した情報は生き続け、自らの役割を寸分たがわず果たした彼は死んだ。田崎の情報は死に、田崎は生き残った。
 田崎がこなしたのは、その任務だけではない。田崎は生き残り、その後も任務をこなし続けた。スパイとして、情報を集め続けた。
 しかし、陸軍上層部は、情報を捨てるばかりだった。
 軍上層部は、作戦に情報を使うことは上手かった。しかし、長期的視野にかけた彼らは、田崎たちのもたらす情報を軽視した。〈あじあ〉の一件で感じたとおり、上層部はますます情報を重要視せず、結果として、日本は負けた。
 死にたかったわけではない。死ぬのはスパイにとって最悪の事態だ。スパイとして最悪の、惨めな負けだ。口うるさく結城中佐が言っていたことでもある。
 それでも、三好の最期を知った時、彼の情報が命と引き換えにして確実に届いたというのには、羨望にも似た感情を抱いた。
 今、田崎の渡した情報は〝仲間〟に伝わり、使われている――生かされている。
 それはたぶん、嬉しいのだと思う。
 スパイとしては余計な雑念だ。いつ失敗のもととなるかもしれない。それを捨てるための訓練を積んできた。
 それが今、表層に上ってこようとする。
 孤独な戦いではないというのも大きいかもしれない。
 田崎の情報を待っている人がいる。はっきりと、誰かのために動いていると感じられるのは稀だ。 
 だから、これはきわめて個人的な任務でもある。
 エマは田崎の――D機関第一期生にとっては、ほとんど任務とは無関係の知り合いだった。知り合ったきっかけは甘利の任務だったが、今やそれを意識することは少ない。
 常に誰かを演じている彼らが、それを気にしないでいられる貴重な瞬間――それを、エマは提供してくれる。
 エマに会うのだって、本当はやめたほうがいい。つながりを持つことはすなわち、感づかれる危険性を伴うということだ。わざわざ渡英してまで会うのは、危険に飛び込むようなものでしかない。
 だが、彼らは暇があればエマに会いに行った。諜報活動のついででもあったが、別に会わなければならなかったわけではない。
 エマに会いに行ったのは、彼ら自身の意思だった。
 田崎も他の第一期生たちも、諜報活動とは切り離された世界にいるエマを見て、安心していたのかもしれない。いざとなったらエマでさえ切り捨てる対象になることを頭の片隅で意識しつつ、かりそめの平和を享受していた。
 ――その平和を守ろうとするのは、スパイ失格なのだろうか。
 甘利の今後の活動に支障がでないようにすること、日本に入り込んだMI6のスパイを排除すること。いくらでも理由はつけられる。
 けれど、その本心はどうだろうか。
 そこに私情がまったくないのかと問われると、一瞬、答えに迷う。
 彼らのしていることは、間違いなのかもしれない。些細なことから、スパイは失敗する。今がそうでないと、田崎には言い切れない。
 そうだとしても。
 エマは彼らにとって庇護すべき〝娘〟だった。

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