蝉の声が鳴り止まない。
 もう夏も終わりだというのに、元気なことだ。ぶり返した厳しい残暑の中、昼も夜も関係なく鳴き喚いて、地上での短い命を燃やしている。声自体よりも、それが振りまく命の気配が耳障りだった。
 エアコンを消したのは失敗だったかもしれない。音がうるさくて眠れないからと、窓を開けたら、代わりに蝉の声に出迎えられた。ぬるい風がかすかに吹いている。
 思い出になるようなものはすべて処分したはずなのに、空っぽの部屋で一人になれない。部屋のそこかしこにこびりついた呪力の痕(あと)が、いつかの光景を容赦なく見せてくる。
 風呂上がりにドアノブを回した手の痕。ことりとマグカップを机に置いて、勝手知ったる様子で椅子に逆向きに座って背もたれに乗せた腕の痕。濡れたままの黒髪が蛍光灯の光を反射し、毛先から滑り落ちた水滴が染み込んだ床の痕。並んでベッドに腰掛けた時の痕、夜中までゲームをしてやがて寝てしまい、シーツに広がった長めの黒髪。それを眺めているうちに、いつしか自分も寝入ってしまい、寝坊して先生に叩き起こされた。二人して床に正座させられ、慣れていない彼は足が痺れてしばらく動けなかった。それを笑っていると、照れ隠しに強めに殴られた。まだ、この肉体を傷つけることのできるものが存在していた頃の話だ。
 ――彼がこの部屋に立ち入ったのは、どれほど前だっただろう。ほんの数ヶ月前だったはずなのに、もう何年も前のようだった。それと相反するように、部屋に残された鮮明すぎる痕跡は、つい昨日のことのようでもあった。
 閉じることのできない眼が、何もかもを暴き立てて眼前に晒してくる。お前は何もわかっていなかったのだと、見えていたのに見ようとしなかったのだと、声もなく責め立てている。
 ――ここは、失くしたものの気配が濃すぎる。
 何もかも捨てようとして、この眼が見たものだけは捨てることを許されない。
 真夜中、薄いタオルケットを被ってベッドの上で足を抱え、じっとする。電気を消して暗闇を見つめる。目を閉じたところで、眠気が訪れることもない。まんじりともせず、夜が明けるのを待つ。
 学生にあるまじき昼夜逆転生活は呪術師としては日常茶飯事だったが、軟禁に等しい現状では任務は入らない。あるいは、気を遣われているのか。休める時に休むのが基本なのに、こうして毎晩蝉の声を聞いている。もとより睡眠時間の少ない性質(たち)であるのも災いしていた。
 やがて空が白み始めた頃、ようやく忍び寄った眠気を捕まえ、束の間の微睡みに身を委ねる。沈みゆく意識の淵で、もう見ることのない彼の屈託のない笑顔が滲んでいる。
 それがここ一週間続いている。

「五条、寝てる?」
「いや、寝てない」
 硝子が驚いたように目を瞬いた。
 ――しまった。
 ぽろりと、つい、本当のことを言ってしまった。
「いやあ、蝉の声がうるさくてさあ」
「そんなに蝉、鳴いてた?」
「あれ、硝子には聞こえなかった? あとエアコンの音も気になるんだよね。あれちょっと古いんじゃない? だいたい性能もあんまりよくないし、なかなか冷えないじゃん。言ったら替えてくれないかな――」
「五条」
 強めに名前を呼ばれた。
 ずっと授業は休みだった。当然だ。学生の一人が――特級呪術師が一般人を大量虐殺し、出奔した。ただでさえ人手不足の高専は、呪霊を祓うどころではなくなった。身内から前代未聞の罪人を出した高専は、その立場さえ危うくなっている。
 ――いわく、お前たちが適切な指導と管理を怠った責任ではないのか、と。
 五条に任務が回ってこないのは、共犯の疑いがかけられているからでもあった。そしてそれは、もう一人の同級生も同じだった。
 何もすることがないのに、身体に染みついた習慣が足を教室に向けさせた。
 がらんとした教室に、二人で並んで座る。たった三人しかいなかったのに、もう二人しかいなかった。
 それなのに、痕跡があまりに多すぎて辟易する。まだそこに夏油がいるみたいに、呪力の名残がここにもしつこく残っている。夏油の椅子と机なんて、ひどい有様だ。残った呪力が見知ったヒトの形をしているような錯覚を抱く。自分にしか見えない亡霊じみて、今にも話しかけてきそうなほどの濃厚さ。
 きっと高専中に残っているのだ。ここにいる限り、夏油の残り香から逃げられない。そもそも家からここへ逃げてきたのに、どこへ逃げられるというのか。
「ていうかさ、机多すぎじゃない? こんなに入学してきたことないでしょ」
 どうでもいいことばかり口から出る。錯覚を振り払うように、失くしたものを埋めるように。
「俺も硝子も関係ないって言ってるのに、あの爺ども、全然話聞かないんだよ」
 呼び出されて詰問され、何も収穫がないと見るや、すぐに釈放された。それからずっと高専に軟禁されている。
 夏油と関わりのあった人員が次々と召喚され、誰も手答えなく解放される。己に向けられた眼差しが、日に日に疑いから憐れみや軽蔑へと変わってゆく。親しい仲ではなかったのか、何故気づかなかったのか、と。
 何も予兆を感じ取ることはできなかった。それが己の罪なのだと、まざまざと突きつけられている。ずっと、首筋に縄をかけられているような。
「なんであんな……」
 新宿の雑踏に紛れた夏油の背を負わなかったのは、ただ呆然としていたからだ。立ち尽くすより他なく、ただ遠ざかる背を見送った。二度と戻らないと理解しながら、追いかけることもできなかった。かける言葉を持っていなかった。
「――悲しいの」
 硝子らしくない、感傷的な物言いだった。
「わかんない」
 何もわからない。何もかも初めてだから、何もわからない。こんなに複雑に入り組んだ感情など、知らなかった。ぐちゃぐちゃに絡まって、どこからほどけばいいのだろう。誰も教えてくれなかった。
 昔、世界はもっと単純だった。単純なままであればよかったのだろうか。
「私は悲しい」
 硝子ははっきりとした口調でそう言った。深入りしない信条だったはずなのに、たった二人の同級生には、さすがに思うところがあったのかもしれない。
「オマエら馬鹿だと思ってけど、ここまで馬鹿だとは思わなかった。何にも話してなかったんだ」
「話すって何を」
 たぶん、その時の硝子は軽蔑するような目をしていた。
「馬鹿みたいに二人で最強とか名乗って、ずっと一緒にいられるんじゃないかって、そんなの一瞬でも信じた私が馬鹿だった」
 あるいは、泣き出しそうな目だったのかもしれない。みんな気のせいで、いつも通り飄々と煙草を吸っているだけだったかもしれない。
 この眼の見せる幻のせいで、何が現実なのか混乱する。
 硝子でさえ、遠くにいた。
 誰も隣に立っていないことに、愕然とした。
「とりあえず寝たら? 隈できてる。どうせ今日も何にもないよ」
「じゃあ子守唄でも歌ってくれるわけ?」
 思ったより刺々しい声が出たことに、自分でも驚いた。
「……ごめん」
「私に当たらないでよ」
「ごめん」
 失敗した。何もうまくいかない。
 硝子がため息をついた。ごそごそと制服のポケットを探り、何か小さな包みを机の上に置いた。
「これでも飲んで寝れば? 睡眠不足だから苛々するんでしょ」
「これ何」
「睡眠薬」
 サングラスを押し上げて、それを見る。
 一枚の紙の両端をねじって小さな丸いものを包んでいる。包み紙はカラフルで、到底薬には見えなかった。
「子どもじゃないんだけど」
「子どもみたいなもんだよ」
 硝子は頬杖をついた。
「言っておくけど、これは私のとっておきの睡眠薬だから。捨てたら怒るよ」

 夜、自室の机の上に乗せた〝睡眠薬〟を見る。ノスタルジーを感じさせるようなレトロな包みだ。まかり間違っても睡眠薬では断じてない。
 どうせ薬など効きやしないのだから、といなされたようでもあった。
「……まあ、ものは試しだよね」
 包みを開けて、丸い飴玉を摘んだ。舌の上に乗せると、甘さがほどける。懐かしい味だ。
 ――錯覚だ。幼い頃、こんなものを食べる機会はなかった。それを知った夏油が、可哀想なものを見るような目つきでこれを買ってきた。
 もう、一年も前のことだ。
 目を閉じてベッドに横になる。熱を持った瞼の上に手を乗せる。ひんやりした感触で、初めて指先が冷えていたことに気がつく。
 蝉の声が鳴り止まない。まだ夏は終わらない。
 甘さが身体を沈ませていく。
 ――今なら眠れそうだった。

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