小さい頃から時折、変なものが見えた。
 さまざまな動物や虫、時に植物のようなパーツをつぎはぎしたような奇怪な姿をして、呻き声を上げたり、ぶつぶつと何かを呟いている。だいたいはどろりとした重たい澱みを背負って、建物の片隅や暗がりに立っている。かと思えば輪郭も定かではない時もある。いずれにしても、他の人には見えない。
 ――〝それ〟に話しかけてはいけないことを、本能的に悟っていた。
 こちらが見えていると気づかれると、それらは追いかけてくる。誰も助けてくれない。見えないのだから当然だが、子どもの時分にはわからなかった。
 変な行動ばかりする変わった子だとして、遠ざけられるだけだった。

 まだ他人には見えないと知らなかった頃、〝それ〟を指差して両親に訴えたことがある。
 優しい両親だった。自分を頭ごなしに否定するのではなく、すぐさま病院に連れて行かれた。だが、自分の訴えを理解することは、両親にもできなかった。
 子供心に絶望しながら意味のない検査を繰り返した先に、医者とは思えないような人が出てきた。
 カウンセラーらしきその人は、両親ではなく自分を見つめた。
「あれに構ってはいけません」
「あの、それはどういう……?」
 両親が戸惑う。
 子ども相手とは思えないほど淡々と、その人は言った。眼鏡が表情を隠している。両親の方には見向きもしないで、その人は自分だけを見ていた。
「君は賢いからわかりますよね。あれは、見える人を襲うことがあります。見えない振りをしてください。もっとはっきり見えるようになったら、ここへ連絡を」
 そう言って、その人は名刺を渡してきた。
 やがて変なものの話をしなくなった自分に、両親は安心したようだった。
 今にして思えば、彼も関係者だったのだろう。市井にいる、〝見える〟人間への対処として配置された要員。自分のような子どもを見つけ出し、監視するための要員。
 ひとまずは日常を過ごせるようになったが、自分を取り巻く環境が変わったわけではなかった。視線を合わせないでやりすごすことを覚えたところで、〝それ〟は消えたりしない。
 つまらない毎日。
 何も見えない両親。
 遠巻きにする同級生。
 そこかしこに潜む、奇怪な何か。
 ――自分にだけ見える、不気味な何か。
 諦めるのに、さほど時間はかからなかった。〝それ〟を見るには、ある種の才能が必要らしい。自分にはそれがあり、他の人にはない。
 ――ならば仕方がないのだ。見えないのだから仕方がない。自分にしか見えないのだから仕方がない。自分には見える力があるから仕方がない。
 ――自分の方が優れているのだから、理解されないのも仕方がない。
 そう思ってしまった自分を恥じた。
 けれどもその考えは、ひとたび沸き起こってしまってからずっと、頭の中にこびりついている。

「君、見えているね」
 サングラスをかけた黒ずくめの男はそう言った。
 校外学習の最中であることも忘れて、展示スペースを飛び出した自分を、男は待ち構えていた。
「……そうです」
 同級生の肩に乗った、昆虫のような何かを、この男は握り潰した。
 ――この男が〝それ〟を消した。自分が視線を逸らし続けてきた〝それ〟を、この男はいともたやすく消滅させた。
 閑散としたショップの片隅で、ぺらぺらと手慰みにめくっていた図録を棚に戻し、男は懐から名刺を取り出した。
「困ったことが起きたら、ここへ連絡しなさい」
 何も言えずに受け取った名刺は、昔病院でもらったものと同じだった。

「なんか、また肩が凝るんだよね」
 校外学習の発表資料を作っている時、同じ班の女子Aがそう言った。また首の付け根に手を当てている。
 クラスでいちばん大きいグループから睨まれている彼女は、先日から少し明るくなったようだった。同じ班の男子Bと仲良くなったようで、休み時間に喋っているのを見かける。
「ストレッチとかしてみた?」
 お人好しな男子Bが言う。
「してるんだけど……お母さんは姿勢が悪いせいだ、もっと運動しろって言うの」
「じゃあ整体?」
「ちょっと大げさじゃない?」
 ――どれも間違いだ。また新しい〝それ〟が憑いているせいだ。何をしたのか知らないが、彼女がクラスのリーダー格の女子からひどく嫌われているからだ。
〝それ〟は人の負の感情を糧に現れるようだった。些細な感情でも、長く続けば肥大化して〝それ〟を呼ぶ。
 クラスに漂う〝それ〟の気配に誰も気づかない。自分だけが〝それ〟の存在に勘づいている。
 鞄の中に入れたあの名刺の存在を意識する。まだだ。まだ。

 とうとうその日が来た。
 たまたま帰り道に、〝それ〟に憑かれた女子Aがいた。最近親しくなった男子Bと、その友達の男子Cと一緒にいた。
 特に話しかけることもないから、三人の後ろを歩いていた。途中までは道が同じなのだ。
 女子Aが笑う。楽しげに。ついこの間まで村八分されていた彼女は、女子のグループにいるのを止めて男子二人と仲良くしている。
 羨ましいわけではない。自分は特別に〝それ〟が見えるから、同じではないから、親しくなれない。仕方のないことだ。
 空気がざわめく。
 ――〝それ〟が、にちゃり、と笑った。
 そこから先は、ほとんど覚えていない。ただ、彼女の背後で広がった〝それ〟が、暗がりを呼び寄せた。
 たぶん、叫んだのだと思う。
 危ない、と言った声に彼女は振り向き、怪訝そうな顔をした。その目の前で笑う〝それ〟に気づかず。周りに集まる〝それ〟の仲間に気づかず。〝それ〟の鋭い歯の生え揃った口が開き――――

 ――伸ばした手が〝それ〟を掴んだ。

 気持ち悪い、ぶよぶよした感触がした。力一杯握りしめると、〝それ〟が黒い塊に変じた。光を吸い込む、漆黒の丸い塊。
 ほとんど本能的に〝それ〟を飲み込んだ。
 初めて飲み下した〝それ〟の味は最悪だった。あらゆる汚物、汚泥をありったけぶちこんでかき混ぜたような、想像を絶する味だ。こんなに不味いものがこの世に存在するのか。
「うえっ……」
 ひどい吐き気がこみ上げて、口元を抑えた。これを吐き出してはならない。何故だか強くそう思った。
〝それ〟の仲間たちが一斉にこちらを見た。
「夏油くん?」
 お人好しな男子Bが振り向く。鋭利な刃物のような前足が、彼の頬にかかる。
「やめろ……!」
 叫ぶと同時に、先ほど飲み込んだ〝それ〟が唐突に姿を現した。女子Aを食おうとしたのと同じ鋭い歯が、同級生たちに今にも襲いかかろうとしていたモノを、噛み砕いた。
 ばりばりと、おぞましい音を立てて、〝それ〟は仲間だったはずのモノを食らった。同時に、腹が熱くなる。まるで、自分が〝それ〟を食べたような。
「今なんか風が……」
「俺も感じた」
「何、どういうこと?」
 三人が不思議そうな顔を見合わせた。
 立っていられなくて膝をついた。脂汗が額に滲んでいる。再び吐き気が迫り上がってくる。胸を押さえた。苦しい。何かがつかえているみたいだ。
「夏油くん、どうしたの?」
「具合悪い?」
 心配そうな声が降ってくるが、返事ができない。
 気持ち悪い。
 気持ち悪い。
 気持ち悪い。
 どうして、こんなものを。
 気持ち悪い。
 ああ、なんてものを――――
「――君の術式は、呪霊を食って使役するタイプだな」
 あまりにひどい味にえずく自分を平然と見下ろし、男は言い放った。いつの間にか現れ、現場を取り仕切っている。夕陽を反射し、サングラスのレンズが輝く。
 気づけば同級生たちの姿はなく、それどころか通行人の一人もいない。
 アスファルトに座り込んだまま、男を見上げる。
「君が今まで見たモノは呪霊と呼ばれている」
 男に淡々と説明される。〝それ〟に名前がつけられると、途端に不気味さが減じていく。あやふやだった〝それ〟に輪郭が生まれるような感覚がした。
「呪霊とは、人の負の感情の寄せ集め。俺はそういうのを祓うのが仕事」
「呪霊……」
 ならば、自分が飲み込んだあれは?
「君が食ったのも、祓ったのも呪霊だよ」
 ぐる、と腹の底で何かが呻いた。思わず腹を押さえた。
「さっきのは低級呪霊だけど、君が従えているはずだ。自由に出せるんじゃない?」
 そんなことを突然言われても、何をすればいいのかわからない。
 男はため息をついた。
「呪術高専というのがある。呪霊を祓う呪術師を育成する学校だ。君みたいな子を育てる場所だよ」
「呪術高専……」
 男はそこの卒業生なのだという。
「後始末はこちらでしておく。興味がないなら、悪い夢だと思って忘れろ。二度と近づくな。力も使うな。興味があるなら……そうだな、名刺は失くしていないな」
「……はい」
「俺が推薦してやってもいいが……なんにせよ、よく考えることだ。特に、親とはな」
 そこで男は言葉を切った。憐れみに似た視線を注がれる。
「もう食ってしまったなら、戻れないだろうが」
 独り言のようにこぼれた言葉は、よく聞こえなかった。

 なんとか家に帰り、顔色が悪いのを心配する母親を締め出して、鞄を開けた。渡された名刺が入っている。
 ――あれと戦う。戦える力が自分にはある。
 胸が熱くなるようだった。吐き気もどこかへ消え去った。
 ――自分は強いのだ。なすすべもなくあれに食われそうになった同級生たちを助ける力があるのだ。ただクラスで浮いているだけの存在ではないのだ。あれが見えることにも意義があったのだ。
 震える手で名刺を握る。
 家を抜け出し、公衆電話まで走る。息を切らせながら硬貨を投入し、ボタンを押す。
 受話器を握る手が汗で滑る。
 呼び出し音を異常に長く感じる。早く。早く。
 がちゃりと電話が繋がる。
『はい。こちら呪術高専東京校です』
 まだ荒いままの息遣いで唾を飲み込み、震える声で、夏油傑は名乗った。

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