「ただいま」
 帰宅した恵がドアを開けると、とっくに帰宅しているはずの津美紀から返事がなかった。
 白髪の怪しげな男――五条に付き添われて低級呪霊を祓った後だった。中学生にしては遅い帰りだが、津美紀には五条の仕事を手伝っていると伝えてある。
 津美紀は母親のように口うるさい時があった。特に「ただいま」と「おかえり」は必ず恵にも言わせた。挨拶もなく親が出ていったきり、帰ってこなかったせいだ。挨拶していれば帰ってきたはず、などと都合の良いことを思っているわけではないにせよ、津美紀の心残りであることは確かだった。
 だから、面倒くさがりながらも恵も従っていたのだが、肝心の津美紀から返事がない。
「津美紀?」
 靴を脱いで家に上がる。
 人に挨拶の重要性を説いておいて、本人が従わないのもおかしい。
「いないのか?」
 一瞬、先に夕食を済ませてちょっとコンビニまで出かけたのかと思った。だが、玄関からすぐ見えるテーブルの上には食器が載っていない。雑然と積まれた学校のプリントやチラシの類だけだ。電気がつけっぱなしだから、まだ帰っていないというのもありえない。
 不審に思いながら、恵は上着を脱ごうとブレザーのボタンに手をかけた。呪力も体力も消耗して、とにかく疲れていた。
 だから、気づくのが遅かった。
 ――テーブルの向こう側に、見慣れたスカートの端が見える。
 この家で、あのスカートを穿く人間は一人しかいない。
 テーブルを回り込む。ほんの数歩、心臓の鼓動がだんだん早くなっていく。
 息が止まった。
 津美紀が床に倒れている。制服を着たまま、床に倒れ伏している。投げ出された手足は、乱暴に手折られた花のようだった。貧しい生活でも精一杯の手入れを欠かさなかった、長い黒髪が床に散らばっている。目を閉じて、意識はないようだった。すぐそばに鞄が落ちている。空いたチャックからノートや筆記具が飛び出している。
 言葉が出ない。
 ――テーブルの向こう側に、見慣れたスカートの端が見える。
 この家で、あのスカートを穿く人間は一人しかいない。
 テーブルを回り込む。ほんの数歩、心臓の鼓動がだんだん早くなっていく。
 息が止まった。
 津美紀が床に倒れている。制服を着たまま、床に倒れ伏している。投げ出された手足は、乱暴に手折られた花のようだった。貧しい生活でも精一杯の手入れを欠かさなかった、長い黒髪が床に散らばっている。血の気のない顔。目を閉じて、意識はないようだった。床の上でなければ、眠っているようにも見える。すぐそばに鞄が落ちている。空いたチャックからノートや筆記具が飛び出している。
 息を吸い込めなくて、頭が痛い。
 ――テーブルの向こう側に、見慣れたスカートの端が見える。
 この家で、あのスカートを穿く人間は一人しかいない。
 テーブルを回り込む。ほんの数歩、心臓の鼓動がだんだん早くなっていく。
 息が止まった。
 津美紀が床に倒れている。制服を着たまま、床に倒れ伏している。投げ出された手足は、乱暴に手折られた花のようだった。貧しい生活でも精一杯の手入れを欠かさなかった、長い黒髪が床に散らばっている。血の気のない顔。目を閉じて、意識はないようだった。床の上でなければ、眠っているようにも見える。すぐそばに鞄が落ちている。空いたチャックからノートや筆記具が飛び出している。転がったシャーペンを踏みそうになる。
 津美紀の額に、見慣れない何かの紋様が浮き出ている。まるで、烙印を押されたみたいに。
 ゆっくりとかがみ、膝をついて震える手を伸ばす。
 そこからの記憶はない。

「恵」
 名前を呼ばれている。
「恵」
 その名前は、あまり好きじゃない。顔も覚えていない父親に、女の子みたいな名前をつけられた。学校では常にからかわれるし、ろくでなしの父親のことを思い出す。もう顔も覚えていないのに、あの男の存在がちらつく。
「恵」
 その名前を呼ぶ人間は二人しかいない。一人は父親の知り合いという怪しい男。資金援助の見返りに自分を売り飛ばそうとしている。もう一人は、
「恵!」
 ばちん、と頬を叩かれた。
 実際にはとても軽かったが、その衝撃は思いの外強くて、一気に意識を引き戻された。
「僕の声、聞こえてる?」
 いつもの軽薄さをかなぐり捨てた低い声が問うた。
「あ……俺……」
 先ほど別れたはずの五条に肩を掴まれていた。肩に食い込む指が痛い。体格に恵まれた五条は、見た目に違わず力が強い。
「今の状況、わかる?」
「……状況……」
 五条の顔がやけに近い。普段は隠している、銀河のような青く光る瞳がまっすぐこちらを覗き込んでいる。
 頬に温度を感じた。五条に両手でがっちりと顔を挟まれている。
「恵、僕の名前を言ってみて」
「……五条、さん」
 薄く発光しているような青い瞳に、呆けたままの自分が映り込んでいる。
 ぺろ、と手を舐められた。濡れた鼻を押し当てられ、次いで犬のような鳴き声がした。
 ――違う。これは玉犬の鳴き声だ。
 勝手に恵の影から顕現していた玉犬がぐるぐると恵の周囲を歩き回っては、心配そうに恵に身体をこすりつけたり舐めたりしている。柔らかな毛並みを肌で感じるが、頭が処理できない。
「手、離して」
「……?」
 五条に手を掴まれた。
 いつの間にかスマホを右手に握りしめていた。通話中のまま、画面の光が床を照らしている。
 五条の指が画面をタップして、通話を切る。
 ――そう、五条に電話したのだ。どうしていいかわからなくて、恵の少ない知り合いの中から、最も信頼できる人間を呼んだ。
「大丈夫だから」
 優しげな言葉に反して、五条が強い力で恵の指を一本ずつ引き剥がしていく。そうでもしないと指が強張って離せないのだ。
「大丈夫、さっき高専には連絡したから」
 ごとり、とスマホが床に落ちた。
 ずっとスマホを握りしめていたから、指の感覚がない。接着剤で固められたみたいに、指が動かない。
「津美紀は向こうの布団に寝かせてある。まだ死んでないよ」
 ――今、なんて。
「五条さん、俺、」
「立てる?」
 なんとか手を貸してもらって、立ち上がった。ふらついたところを五条に支えられる。
 隣の和室には布団が敷かれ、津美紀が寝かされている。
 ふらふらとそばに座り込んだ。
「五条さん、津美紀は……」
 言いあぐねるように五条は手を握ってほどいた。腕を組んで壁に寄りかかる。
「詳しくはわからないけど、呪いだと思う」
「呪い……」
 これは報いなのだろうか。呪術だとかそういうことは津美紀には一切関係がないはずだ。それなのに、恵に絡みついた因縁が、よりによって義姉に?
「恵」
 再び近づいた五条の瞳に、自分が写っている。
 もう、どうしたらいいかわからない。
 足元に座り込んだ玉犬が見上げてくる。柔らかな毛並みを抱きしめる。もっとずっと、小さかった頃のように。
 壁一枚を隔てた向こう側で起きたことみたいに、現実味を感じない。みんな、どこか遠かった。
 五条の瞳の中で、呆然とした自分がこちらを見つめ返していた。

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