前略 俺は謝らないよ。オマエだってそんなの要らないだろ? だって、これはオマエがそう決めたことなんだ。馬鹿じゃねえの。もっとなんかあったでしょ。時々、オマエって本当に馬鹿だよな。

「ほんと、馬鹿な奴ら」
「男ってどうしていつもこうなのかしら」
「歌姫先輩もそう思います?」
「……硝子、泣いたっていいのよ」
「泣きませんよ。あんなクズどものためになんか」
「そうね。あんな奴らにはもったいないわ」

               *

 鎮守の森の中、川辺に五条は降り立った。浅い川だ。大人のくるぶし程度の深さしかない。川底の石がごつごつと突き出ている。夜闇が辺りを覆っている。星明かりがかすかに水面を光らせる。ざわざわと風に梢が揺れる。舞台に立つのは二人だけだ。
 川の中ほどに少女が立っている。目眩がするほど何も変わらない姿をしている。
 それ自体が異常だった。少女――三藤早苗は、五年前に死んだ。五条はその命の終焉をしかと見届けた。間違えるはずがない。
 川には踏み込まず、五条はサングラスを外した。
「三藤早苗。――いや、三藤章、だね」
「正解」
 早苗は微笑んだ。その笑顔が罅(ひび)割れる。幻を見ていたように、見る間に顔が変わる。剥落した仮面の下には、あの時のままの少年の顔がある。姉によく似た顔立ち。まだ成長途中の少年の細い顎。まだ背丈は姉とさほど変わらなかった。借り物のきらめく右目だけが違う。
 呪力は早苗のものだ。早苗がこれを生み出した。章の姿をして、章ではないモノを。
 同時に、嫌というほど見慣れた呪力が薄く章を覆っているのが眼に映る。
 ――これは、夏油傑の呪力だ。
「章くん、死んだよね? まさか生き返った?」
「心にもないことを言わないでくれる?」
 五条は目を眇(すが)めた。
 彼――三藤章は死んだ。姉と同じく、あの日の夜に。彼は死後、早苗に呪われて怨霊と化した。早苗が死んだから、消滅を待つだけだった。
 章が消え去る瞬間を五条は見ていなかった。一瞬だけ、眼を閉ざしていた。
 祓われたはずの呪霊がここに存在する理由は、ひとつしか考えられない。右目をたどって五年前の因果に捕まったのは、つまりはそういうことなのだ。
「何だ、君、傑に調伏されたの」
「違う――とは言えないかな」章は唇を歪めた。「夏油さんが教えてくれたんだ」
「傑が? 何を?」
「望みは何かって」
「ふーん。傑が人生相談してくれたんだ。まあでも君、死んでるよね。死んでも叶えたい望みとかあったの?」
 調伏された呪霊の意思がどうなるのか、五条は知らない。呪霊操術は六眼ほど有名ではないにせよ、ひどく珍しい術式だ。これまで夏油ほど強い呪力を持った者はいなかった。
 章は他人に呪われて怨霊となった。自分の呪いでなったわけではない。だから、呪った本人が死んだら存在を維持できない。もとより、そこまでして現世に残りたいわけでもない。――そのはずだ。
「ないと思ってたけど、探せばあるもんだね」
「――それが、両親を殺すこと?」
 章がうっすらと笑った。彼は、こんな表情をする性格だっただろうか。
「よく知らない相手から誘われたって安易に乗っちゃだめだよ。後で何を要求されるかわかったもんじゃないからね。大人はみんな悪い奴だから」
「アンタも?」
「そう。僕も悪い大人だよ」
「……俺を殺すから?」
「君、もう死んでるでしょ」
 会話が成立しているようでいて、話が通じていない。ずれた場所から答えを投げ返されているようだ。
 ――それにしても、と五条は油断なく観察する。
 章はちぐはぐだった。人語を話せるほど知能はあるが、飛び抜けて強い呪霊ではない。特級に分類されるかは微妙なところだ。それは六眼(め)に映っている。話せるほど知能が高い割に、呪力は多くないのだ。それが怨霊という性質によるものなのか、はたまた早苗から命を費やすほどの呪力を渡されたせいなのか不明だが、五条であれば数秒とかからず祓える。にもかかわらず、こうして会話に興じているのは、目的が知りたいからだ。振る舞いからして、夏油の命令でやったようには見えない。あまりに無意味だ。
 ――何故、今になって現れたのか。夏油が五条の見ていない隙に取り込んだとして、何故自由に行動させているのか。
 何故、怨霊に両親を殺させたのか。早苗はそれほどまでに両親を呪っていただろうか。
「傑は僕よりもっと悪い大人だからね。騙されちゃだめだよ」
「教師みたいなこと言うね」
「あ、そう? 嬉しいな。僕これでも教師になる予定なんだよね」
「アンタみたいな教師、お断りだよ」
「みんなそう言うんだよねえ。ひどい話だと思わない?」
 章が怒気を滲ませた。着物の裾から蛇がぽろぽろとこぼれ落ちる。川の水面からも蛇が顔を出す。あれは早苗の術式だったはずだ。ならば、術式は譲渡されたと見るべきだろう。ありえない話ではない。血筋に憑く呪霊を封印するのが早苗の術式だった。血族間での譲渡も不可能とは言い切れない。現に早苗は、奪った五条の右目を弟に譲渡した。
 それとも、自分の命を代償に死んだ弟を生かしたいと願った奇跡だったのだろうか。実の姉の強い愛が起こした奇跡だったのだろうか。あの時は六眼が機能不全であまり術式を観察できなかったから、真実は闇の中だ。
「にしてもよくやるよ。五年前の〝縁〟を利用して、この僕に呪いをかけるなんて。もしかして五年前に僕を呪えたのもこのせいだったりする? タイムパラドックスって呪霊には関係ないのかな? やっぱり君たちと僕、相性悪いね。それとも良すぎるって言うべきかな?」
 ――愛とは何だ?
 向かってきた夜刀神に視線を向ける。掌印を組むまでもなく、五条の術式が蛇を消滅させる。
「アンタが! アンタが余計なことを言うから! 姉ちゃんは!」
「何のこと? 僕ちょっとよくわからないから教えてほしいなあ」
 しらばっくれる五条に章が激怒した。
 ――愛とは何だ。他者に対する強い執着をそう名付けただけだ。
「アンタたちのせいで! あそこに来なければ!」
「オマエの姉は弟を殺さずに済んだって? 馬鹿言っちゃいけないよ。罪は自分で背負うものだ」
 ――それが、早苗の後悔なのだ。弟を殺したという後悔。あの場に五条と夏油が現れ、狂った歯車は予想外の結末を生んだ。
「誰にも肩代わりはできない」
 罪は自分だけのものだ。簡単に手放してはいけない。たとえ分けてほしいと思っていても。それは本人だけのものなのだ。
 この場に残滓だけを漂わせている彼のことを考える。離された手を無理矢理掴めばよかっただろうか。迷うことなどなかったのに、システムを狂わされたように正解がわからない。後悔はないが、ひと匙(さじ)の寂寥と迷いが胸の内に沈んでいる。――繋いでいた手は、いつ離されてしまったのだろう。
「だいたい、自分の両親を殺しておいてその言い草はないでしょ。前も言ったよね、被害者気取り、僕嫌いなんだよ」
「じゃあ何で、何でもっと早く助けてくれなかったんだ!」
「そりゃあ――君のお姉さん、助かりたいと思ってなかったからね」
 五条は一人で何でもできる。どんな呪霊だって一人で祓える。それは自慢でもなく、ただの事実だ。だが、助かりたいと思っていない人間を助けることはできない。助かる道を示したところで、本人が歩きたいと思わなければ意味がない。道を歩くのは本人だからだ。
「持って生まれた役割に殉じるとか、今時流行(はや)らないよ。動く足があるのに逃げなかった。そしたら僕にできることはない」
「……ッ」
 章が歯ぎしりした。その足下から際限なく湧く蛇を、目もくれずに五条は祓う。力量差は一目瞭然だった。
 呪いをかけた人間がいないのだから、消え失せるべき存在だ。それなのにいつまでも未練がましく、ぐずぐずと居残っている。これが三藤早苗の望みなのだろうか。断罪されたがっていた彼女の最後の願いなのだろうか。両親への復讐を、彼女は本当に望んだのだろうか。
 夏油は、代わりに恨みを晴らさせてやりたかったのだろうか。今になって。
「それなら何でッ……」
 言いたいこともまとまらないまま、章はやみくもに蛇を差し向ける。だが、どれも五条には届かない。無駄に呪力を消費しているだけだ。
「君は素直だね。だから死んでも呪いにならなかったんだ」
 詰(なじ)られるのは初めてではない。薄情だとか冷酷だとか、それに類する言葉は聞き飽きた。そういう自分の気質を、五条は受け入れている。そういう風に生まれついたのだから、そういう風にしか振る舞えない。――それの何が悪い?
「罰は救いなんだよ。君のお姉さんはそれを望んでいた。過程は……まあ、ちょっとよくなかったけどね」
 どちらにせよ、五条たちが到着した時点で決まっていたようなものだ。二人殺しておいて無罪放免とはいかない。
「その殺意が本物ならよかったんだけど」
 これは怨霊だ。誰かの願(のろ)いが投影されて形を成した存在だ。早苗の遺志を引きずっているのか、取り込んだ夏油の感情が混ざってしまったのか、五条には判断がつかない。
 理解する必要もない。これは残骸にすぎない。死んだ者は二度と蘇らない。どんなに外見と人格を模したところで、所詮は紛い物だ。ヒトの姿をした偽物。たとえ自我を得たとして、それは章本人ではない。
 これに再びヒトの形を与えたのは夏油だ。ならば、これに投影された願(のろ)いは夏油のものなのだろうか。
「……オマエは何がしたかったんだ」
「みんな死ねばよかったんだ! 姉ちゃんがみんな殺してしまえば! そしたら!」
「それが君の望み? 本当に?」
 ――醜悪なショーだ。復讐にもなっていない。これのせいで、余計に二人死んだ。夏油が殺したようなものだ。非術師を鏖殺するだけでは飽き足らず、こんな芝居を仕込んでまで、何がしたかったのだろう。
 五条には何もわからない。夏油のことなど、何ひとつわからない。
「言いたいことは全部言えたよね? じゃあそろそろ返してもらうよ」
 五条は宙を踏んだ。一瞬で章に肉薄する。
 見開いた章の右の眼窩に指を突き入れた。泥に沈むような感覚。軽くまさぐり、指を引き抜く。
「――――」
 章が唇を動かした。その音が言葉を成す前に、五条は術式を発動させた。
「さよなら、章くん」
 消滅してゆく怨霊を見下ろす。泥に帰るように、ぼろぼろと姿が崩れる。少年の姿をしていたそれは、宙に手を差し伸べた。届かない月に手を伸ばすように、誰かの手を探すように。
 昇る朝日に灼(や)かれるように、すべてが滅する。後には何も残らない。
 章を怨霊にしてまでここに留めたのは、姉の愛だった。引き継いだ夏油にその愛は理解できたのだろうか。愛の証明のためだけに、五年も経ってからこんな血なまぐさい茶番を引き起こしたのだろうか。
 白い朝日が暴力的に眼を灼く。
「眩しいな」
 ――それを愛と呼ぶのなら、わからないままでいい。きっと、誰にもわからない。本人たち以外には。
 五条はサングラスをかけ直した。世界から光と色が遮断され、暗闇が訪れる。慣れた暗闇だ。光がないだけで、何も見えないわけではない。六眼の見せる世界は、光でものを見ている人たちよりはるかに情報に溢(あふ)れている。
 だが、見えることとそれを理解することはイコールではない。
 愛しい人を化け物にしてまでこの世に留めようとする感情を、五条悟は理解しない。

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